一般論で言っても、トラブルに直面し、対処する時は、第一に状況の十分な把握が何よりも必要で、何が確定しているのか、何が不確定なのか、判断をするには何を知る必要があるのか、それを知るためにはどのような手段が必要なのかを認識し、可能な限り全ての対応策を手配する必要があります。第二に、それらが機能するまでは、平行して、最悪の状況を想定した、従って保守的な、仮の対処を行わなければなりません。
そして、それ以前に、それらの事象は当然事前に想定され、準備がなされていなければなりません。そうでなければ、状況把握すらままならない事になるでしょう。
原発事故に関しては、それらの基本が全て皆無であった事が明らかになりました。政府、東電、原子力保安院は、未だに状況の把握、そのための体制構築すら殆ど着手しておらず、無根拠に、場当たり的、盲目的、楽観的な、かえって状況を悪化させる結果にしかならない筈の行動に終始し、その帰結として当然に悪化した結果に関して、責任の押付け合いを行っています。
このような姿は、大企業を初め、どのような組織でも、殊に現場を知らず、状況を正確に認識し手当てする、しておく能力がない、その意味で無能な管理者が地位を占める場では日常的に起こっている事で、取り立てて珍しいものではありません。だから、今更それを目にしても、特に取り立てて、驚きや失望を感じるわけでもありません。そして、こういった状況の結末は何処でも同じで、結局は破綻に至る事も、当然に予測されます。そこには絶望しかない。もはや回復は望めず、後は時間の問題でしょう。少なくとも、私が目にし、経験してきた範囲では、破綻を避け得た例はない。それは受け入れなければならないだろうと思います。
ただ、責任は残ります。こういった状況にあっては、どう言い逃れを試みようと、責任者、担当組織は壊滅を避けられない。政府、東電、原子力保安院、東芝等メーカー、現場業者。それらが血祭りに上げられ、消滅し、被害が風化するまで、おそらくこの件は終わらないのでしょう。それには、どれほどの歳月が必要になるのか。想像するのも困難ですが、放射性物質の残留期間を基準にするのであれば、その回収の困難さとも併せて、少なくとも数十年、さらにそれを遥に超える長期に渡る事も、当然にありうるでしょう。
しかし、彼らには、その認識すらもないように思われます。犠牲者、被害者の無念いかばかりか。察するに余りあるものです。そもそも、償う事は可能なのでしょうか。汚染が確認された地域の避難すら拒み、今もって被害は拡大を続けているというのに。