12/21/2024

[biz] 米で相次ぐスト、長年のツケを払わされるAmazon

Strikeです。

年の瀬の最中ですが、米国ではそんな事関係ないと言わんばかりにStrikeが頻発しています。

秋頃に長らく続いたBoeingのストがようやく終わったと思ったら、AmazonのDelivery Driverがスト、続いてStarbucksの一部でもストです。

要求内容はほぼ同じ。賃上げと労働環境の改善です。もちろんこの超のつきそうなインフレ下ですから賃上げが主たる目的である事は明らかです。

要求はBoeingの例に倣えば概ね通る見込みではあります。およそ30%〜が相場でしょうか。インフレ率からすればまだ控えめと言っていい位ではあるのですが、凄い率ですね。

ただ、Amazonだけはちょっと、いやかなり事情が違います。以前日本国内でも一部地域で発生したストの時と同様、 配送担当のドライバーは形式上Amazonに雇用されているのではなく、委託契約を受けた下請け業者の立場にあります。なので、AmazonはそもそもDriver達(及びその結成したUnion)を交渉相手と認めておらず、門前払いしている状況なのです。

日本の労働法で言えば、契約の形式によらず、実質的にAmazonの指揮命令下にあればその限りで雇用関係にあるものとして交渉権が認められるものと解されていますから、その拒否は違法という事になるだろうわけですが、米国の労働法は統一的なものではなく、しかも連邦法・州法によって様々な規定が分散していて一概にこう、という解釈が困難らしい感じなのですね。

だから門前払いも即違法とはならず、そこから裁判、もしくは実力行使で争う必要がある。何にせよ、時間稼ぎにはなるでしょうし、その間にAmazon側が個別に契約解除なりしてしまえば終わりだったわけです。これまでは。今回はそうなっていません。何故か?それは、Driver達をAmazonの被用者と認めるお墨付きが最近になって出たからです。

一般的な感覚では、注文から配送まで完全に一体のシステムとして組み上げられたAmazonの通販サービスの中で、機械的に委託を受けるドライバーに個別の裁量の余地などなく、実質的にAmazonの指揮命令下にある労働者と見るべき事は明らかですが、米国の労働関係局が最近になってAmazonを"joint employer"、つまり実質的な雇用者に分類する判断を示したのです。(もっとも、Amazonは不服として争っているそうですが。)

このお墨付きが与えられた事によって、これまで成立しづらかったUnionが成立し、ストが起こせるようになった、というわけですね。

とはいえ、Driver達のUnionは、Amazonの労働者の一部に過ぎず、ストの効果も限定的で、交渉力は弱く、要求をAmazonに飲ませるには不十分です。そこで、その弱い交渉力を補い、ストを効果的なものにすべく、Amazonの他の部門の労働者とも連携を進めており、その一環としてNY,California等の一部Hubの労働者がDriverのストに呼応してWalkoutを実施しました。

AmazonはDriverのストによる影響は殆どないとしていましたが、HubでのWalkoutについてはその配送への影響を認め、遅延等の発生を警告しています。つまり、ストが機能している。これまでのようにAmazon側が無視して終わり、とはいかなくなっているわけです。

今後の見通しは不透明です。決着の形以前に、そもそも交渉の席に未だついていない、という現状からして、Amazonのストが収まる見込み自体立っていません。しかし事業に無視できない支障が出ている以上、無視・放置を続けるわけにもいかないでしょう。

また、これまで交渉自体を拒否し、放置し続けて来た経緯上、労働者側の溜め込んだ不満は尋常なものではないだろう事は明らかで、その分要求は苛烈なものになるだろう事も必至です。Amazonにとって、その交渉は困難を極めるものになるでしょう。長年のツケを払わされる時が来た、という事なのかもしれません。であれば自業自得と言う他ないのですが。

委託契約を使って雇用・労働法制を潜脱し、不当な労働条件・環境を強いてきた搾取企業の代表であるAmazonの、その悪しき体制の終わりにつながるのか、労働者達の健闘を祈りつつストの行方に注目する次第なのです。

Amazon workers are striking at multiple facilities. Here’s what you should know

12/11/2024

[biz] GMが自動運転タクシー事業から撤退

米自動車大手GMが、自動運転タクシー事業からの撤退を決定したそうです。

同事業は、子会社のCruiseを通して実施されていたものですが、2023年にSan Franciscoで女性に重篤な怪我を負わせる人身事故を起こして以来その運行は停止され、罰金も課されていました。運行再開の目処も立たないまま、結果としてこれが致命傷になった格好です。

米国のrobotaxi事業自体はまだ黎明期にありますが、既にWaymoをはじめ、Teslaの参入も報じられるなど、技術的成熟も社会からの認容も待たず、早くも過当競争に陥る兆しを見せていました。収益など無いも同然であっただろう事は明白です。

GM社は、その市場環境の先行き見通しの不透明さに加え、技術的な課題の困難さ、開発コストの高さ、前記のような事故のリスク等を勘案した結果、事業としての成功が見込めないと判断したものと思われます。

今後は、ドライバーレス車の開発は全て中止し、通常の運転支援技術に注力するとの事。事故の際の責任が全てメーカーに降り掛かってくるその性質上、やはりドライバーレスの自動運転車はメーカーにとってあまりにもリスクが高すぎるのでしょうね。他社はどうするのでしょうか。

そもそもの話、ドライバーレス車をその高い追加コストを払い、諸々のリスクを許容してまで求める人ってそんなにいるんでしょうか。自分で運転が出来る人には少なくとも必須ではないでしょうし、そうでなくとも周囲の人や、それこそ通常のタクシー・uber等、従来通り人に運転を頼めば十分なケースが大半でしょう。

結局、運転手がおらず通常のタクシーもuberもなく、バスすら走っていないような過疎地域において自分で運転出来ない人がメインターゲット、という事になるわけですが、それは極めてニッチな需要でしかありません。ユーザーの密度や許容される単価を考えると、採算が取れるとは考えられませんね。その上技術的にも未熟で安全性も担保されないとなると、やはり事業としては厳しいと言わざるを得ず、今回のGMの判断にも首肯せざるを得ないのです。

GM is pulling the plug on its robotaxi efforts  

12/10/2024

[law] 石破総理のトンデモ憲法論に困惑

石破総理が、なんか変な事を口走ったそうで。

企業・団体献金の禁止の是非に巡る国会での議論の最中に、憲法21条規定の表現の自由に抵触する、との見解を述べた件についてです。

多くの人が疑問を感じたのではないでしょうか。特に法律論に明るくない一般の人には、企業・団体の政治献金が表現の自由で保障されている、と言われても、何を言ってるんだとしか思われないでしょう。 

法的に見ても結論としては似たような感想を持たざるを得ません。全く根拠がないというわけではないのがややこしいのですが、詳細に論ずると切りがないので要点だけ。

本見解は、おそらくは企業献金の合憲性を認めた八幡製鉄政治献金事件を念頭に置いたものかと思われますが、これは一般論として法人も憲法に規定された各種の権利・義務の主体となりうる事を認めたものであって、個々の権利に対する規制の可否とその審査基準については何ら審査も判示もしていません。従って上記見解の根拠にはなりえません。

また、表現の自由により保護される権利は広範に及びますが、その大部分は個人の尊厳を保護の根拠としており、それを観念する事の出来ない法人等については、自ずから憲法上の保護を受けるべき権利の範囲は個人のそれと比して狭く、かつ保護の必要性も小さいものと一般に解されます。

法人等では、その行為につき構成員間での意見の相違や個人の信条との不整合等、個人の人権との衝突も起こり得ます。その場合は、原則として個人の人権の保護が優先されます。すなわち、法人の行為に対する規制が合憲性を帯びるわけです。なお、その規制立法が他の人権を侵害する場合にはその限りで違憲となる事については言うまでもありません。

必然的に、法人等への規制に対する違憲審査においては、個人に対するそれより緩やかな審査基準が適用される傾向にあります。つまり、法人等の活動への規制は合憲とされやすい。というか、余程の明白な違憲性が認められるのでない限り、裁判所が違憲と判断する可能性は限りなく低いのですね。その意味で、個人と法人とは憲法上の保護の度合いが全く違うのです。

規制を違憲とする最高裁の判断が示されたのなら別ですが、それもない。である以上、表現の自由に抵触する、等と言える筈がないのです。現時点で言える事は、規制のやり方によってはその可能性が生じうる、といった程度でしょう。それにしたところで、その判断に際しては、法人独自の権利が保護されるのではなく、最終的にその大部分が個人の権利の侵害如何に帰着するのではないでしょうか。個人の人権を侵害しない限りにおいて合憲、といった形で。

そもそも、企業・団体による政治献金につき表現の自由として保護が及ぶ事と、他の人権の保護のために制限を加える事の是非とはレベルの異なる話なのですが、石破総理の発言ではこれらを混同しています。

石破総理の思い込みなのか、それとも意図的に混同したのかはわかりませんが、少なくとも一般には通じない言説には違いありませんし、あの文脈でわざわざ述べる必要も意味もなかったように思われます。企業・団体献金の規制をしたくない旨をもっともらしく主張したかっただけなのかもしれませんが、不適切と言わざるを得ませんね。困ったものです。

12/08/2024

[pol] また一人、中東から独裁者が消える

ついに、でしょうか。IraqのHussein,LibyaのGaddafiに続き、また一人、中東から独裁者が消えます。 

親子二代、50年以上に渡って中東Syriaの支配を続けてきたAssad家ですが、国内武装勢力に敗北し、その支配が終わろうとしています。既に首都Damascusは包囲され、事実上陥落したも同然の状況となり、Assad大統領は既に国外に脱出したとの情報も流れています。

Bashar al Assad。2000年に父のHafazの後を継いで以来、常に不安定な中東情勢にあって、その戦場の中心の一つとして、国内の武装勢力、Al QaedaやIslamic states等のイスラム諸勢力、Israel等の敵対国家まで、国内外の様々な勢力との戦争に明け暮れる一方、就任直後の粛清と知識人等の大量逮捕・収監に始まり、Sunni派の弾圧、また数多の虐殺といった明らかな犯罪にも頻繁に及び、多くの人を常に虐げ、殺し続けました。

それはまさに、血塗られた、と形容するにふさわしい独裁者のそれだったと言えるでしょう。情勢的にそれ以外に選択肢はなかった、というだけなのかもしれませんが、本当に戦争以外の話が全く聞こえてこない大統領でした。

永遠に続くかに思われたそのAssad家によるおぞましい支配も、終焉を迎えます。代わってSyriaの統治を担うのは、イスラム系の武装勢力の連合体です。AfghanistanのTalibanほど原理主義的ではありませんが、自由主義的な統治になるわけはなく、程度の差こそあれ前時代的なイスラム国家としての道を歩む事になるのでしょう。

直近の戦闘では、LebanonのHezbollahも参戦していたとの話もありますし、イランの影響が強まる可能性は高いものと推測されます。その場合、Israelとの戦争が本格化する可能性もあります。ただ、地域的にはSunni派が多数派なのと、その他の勢力も多数入り乱れている状況なので、どのような傾向が強く出るのか、また安定的な体制になるのか等、殆どの事が不確定な状況には違いありません。

長年の戦乱によって国内は荒廃しきっており、また今回の政権移行はIraqの時のそれと違い、西側諸国の意向があまり働いていない事もあって、安定や秩序、そして平和がかの地にもたらされる日は遠そうです。

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行方が判然とせず死亡説も流れていたAssad大統領ですが、Moscowに亡命して存命であるとの報が流れています。今のRussiaにそんな余裕があるのかという疑問も浮かびますが、流石に注目が集まっている今見捨てる、あるいは切り捨てるのは躊躇われたという事でしょうか。

なお、Iranの影響については、世間的にはどちらかというと減ると見る向きの方が多いようです。いわゆるShiaの孤の一角が崩れた、として。確かにそういう面はあります。Iranは長年Assad政権を援助し続けて来ましたし、そのラインを通じてLebanonに武器を供給もしてきました。それが消滅する影響はそれなりにあるでしょう。

しかし、今回政権を打倒した反政府勢力はその総意として反Shiaや反Iranを掲げているわけではなく、欧米やロシアを含め、特定の外部勢力の傘下にあるわけでもありません。現状は、単にAssadの支配が崩れ、地域の情勢が不安定化したものと見るべき状況のように思われます。しかるに、近隣のどの勢力が最も介入を強め、また今後強い影響を持ちそうかと言えば、それは長年実体的かつ密接な交流を通じて影響を保ち続けて来たIranであろうと思われるわけです。

政権が消えても、人やモノの流れを通じた実体的な繋がりはそう簡単に消えるものではありませんし、むしろ混乱に乗じて影響を強める可能性も低くはないでしょう。勿論、新政府のあり方如何によりますし、とりわけSunni派の意向が強く反映されるものになれば、Iranが排除される可能性もあります。ただ、実際問題としてあの地域でIranを排除するというのはそんな簡単な話ではないし、それが可能な程に一体性を有する、統制された政権になるのかすらわからない現状では、そこはまだ判然としません。

勿論Israelはありえません。Syriaの武装勢力は全てMuslimですから、むしろ対Israelで一致団結する可能性が高いでしょう。

12/05/2024

[pol] 息子を見捨てられなかったBiden大統領

米国のJoe Biden大統領が、息子のHunter Bidenに恩赦を与える大統領令に署名しました。

身内への恩赦。特段の正当な事由もなく行われたそれは、紛うことなき権力の濫用です。これまで度々その行使の是非を問われ、否定し続けていた前言を翻して踏み切った事もあり、背信行為と看做されてもいます。

当然、米国はほとんど非難一色です。身内である筈の民主党内からも、左派を中心に公然と批判の声が上がっています。

その長い政治家としてのキャリアを通じて受けた批判は数え切れない程あれども、このような明白な権力の濫用は一度たりともする事はなかった彼が、そのキャリアの最後に犯した、たった一度の過ち。

彼は、この過ちによって、間もなく訪れるそのキャリアの終わりに当然に得られた筈の、公正を貫いた政治家としての名誉を損なう事になりました。完全に失ったと見なす人も少なくはないでしょう。

このような結果を大統領が予想出来なかった、等という事はあり得ません。それは承知の上で、全ての応報を覚悟して踏み切ったのだろうと考えられます。

その事情は概ね理解できます。脱税等の容疑で訴追されていたHunterは、司法取引に失敗し、元々有罪となる見込みでしたが、次期大統領のTrumpから明らかに敵視されており、次期政権下でその意を受ける司法当局に恣意的かつ不当な厳罰を課される可能性が極めて高くなっていました。

その主たる原因は、TrumpがJoeを政敵として敵視しているから。それだけです。すなわちBiden大統領の息子であるという、Hunter自身にはどうする事もできない理由によるものです。Joeからすれば、自分のせいで息子が危機に晒されている状況にあったわけです。

そして、Joeには恩赦を出す権限があった。つまり、息子を助ける事は不可能ではなかった。その行使の是非は、Joeにとって、政争に巻き込んでしまった息子と自身の立場、そのどちらを取り、どちらを捨てるのかという、残酷な選択をJoeに強いるものになっていたのです。

Hunterにかけられた容疑は正当なものでした。である以上、それは法に則って裁かれるべきであり、罪が認められれば当然に罰せられなければならない。将来その罰が不当なものになる可能性があったとしても、それを理由に訴追自体の赦免などしてはならない。当然の事です。

また、正当な理由なき恩赦は権力の濫用であり、誰よりも公正であるべき大統領として厳に慎むべきもの。身内に対するそれであればなおさら。これもまた当然の事です。

大統領の立場からは、どうやっても正当化など出来はしません。もし行使すれば、自身のみならず大統領という立場の威信をも損ない、後世まで拭い難い汚点となる。多くの人の信頼を裏切った者として、名誉も信頼も、何もかもを失うだろう、論外の行為。大統領自身、その事は誰よりもよく理解していたでしょう。

しかし、最後の最後で。自分が原因で、その人生を破壊されようとしている息子を前にして。彼は、見捨てる事が出来なかった。これはそういう事なのでしょう。

そうでなければ、どうして彼が、その人生をかけて築き上げた輝かしい名誉を投げ捨て、信頼を裏切り、当然に予想されていた司法当局や国民、仲間達からの非難をも甘んじて受け、あまつさえTrumpに自己への恩赦の口実を与えてしまうような、大統領という立場そのものの威信、ひいては統治体制への信頼をも決定的に損なうだろう暴挙に及んだ事に説明がつくというのでしょう。

その立場や公益、自身の名誉と親子の情を秤にかけ、前者を捨てて後者を取った。大統領と言えど、否、大統領であるからこそ生まれたその葛藤の末、我が子に情をかけるために、全てを犠牲にしなければならなかったJoe。

その行いが批判を受ける事は必然という他はありません。

ただ、彼はまず間違いなく全てを承知の上で、Hunterへの恩赦に署名した筈です。名誉も信頼も全てを捨てて。そんな彼を、殊更に袋叩きにする事に正当性はあるのでしょうか。それ以前に、意味はあるのでしょうか。

民主党議員をはじめ、良識を重んじる点を自身の正当性の根拠にしている人達としては、この先、Trumpが権力の濫用、特に自己への恩赦をしようとした場合を想定して、その時に非難するためにはここでBidenを非難しておかなければならない、という事情もあるのでしょう。あるいは、Hunterが受けるべきだった刑罰の肩代わり、という意味合いもあるのかもしれません。

しかし、であればこそ、それは不当な行為であると言わねばなりません。味方も失って、反論の術さえない、たった一人の老人に過ぎない彼に寄って集って加えられる、法の歯止めもなく無秩序な非難。それらは、ただの私刑でしかないのです。

法治国家にあって、あらゆる行為の正当性は、法によってのみ担保されます。Trumpのそれと対峙する際に正当性を主張しようとするなら、法に基づかないそれらはなおさら厳に慎むべきものである筈です。Bidenの今回の恩赦にしても、あくまで大統領として法によって与えられた権限に基づいて恩赦を与えたのであって、違法な事をしたわけではないのですから。

そもそも、そんな事をしても、何も得られるものはないのです。 彼はそういう選択をした。もはや取り返しはつかず、非難を加えたところでその事実は動きません。大統領としての任期も間もなく終わりを迎え、同時に政治家としても引退する彼に、次はありません。年齢からすれば、この世から去る日も遠くはないでしょう。

そんな彼を痛めつける事に、意味も正当性もないのです。憤慨する人や、無念に思う人も少なくはないでしょうが、ここに至っては、もはやただ静かに見送る他ない、とそう思うのです。

願わくば、去りゆく彼に残された日々の中に、許しと救いの訪れんことを。

ただ、Hunterについては話は別です。そもそもの責任はほぼ彼にあるわけで、彼がまっとうな生き方をしていたならこんな悲しい事にはならずに済んだ筈なのです。それが無罪放免というのは納得しろと言う方が無理というものです。

実際のところ、彼に対する米国民のヘイトは半端なものではありませんから、自分の身を守るためにも、なにがしかの罰は受けておいた方がいいだろうとも思いますね。主要な容疑は脱税であって、たかが、とまでは言えませんが、強盗や殺人等の重犯罪が日常茶飯事な米国にあっては、それらと比較すれば遥かに軽い部類のありふれた経済犯に過ぎないのですし。

[pol] 増税と歳出削減はやはり鬼門。仏首相、不信任可決

仏でMichel Barnier首相の不信任が通ったんだそうです。

就任からわずか3ヶ月。Macron大統領が後任を指名するまではその任に留まりますが、もう何も出来ませんし、退任したも同然ではあります。お疲れ様でした。

原因は、600億Euro(約10兆円)規模の歳出削減及び増税を盛り込んだ2025年の予算案につき、与党が少数派であるために議会の承認を得られる見込みが立たず、専決処分的に議会の承認なしで予算を成立させようとした事によります。

予算を議会の承認なしで成立させる。それは暴挙と言う他ありません。というかそんな事が可能なの?と耳を疑うような話です。

ざっと確認してみたところでは、それが実際法的に可能なのかどうかについては、当のフランスでも微妙だそうです。憲法上明文で否定されているわけではないようですけれど、歳出削減は別にしても、増税等の国民に重大な義務を新たに負わせる措置は、その前提として国民の同意すなわち議会の承認が必須であり、一般に専決処分の対象にはなりえないものと考えられます。どう見ても無理筋ですね。

仏議会は当然の反応を示しました。到底受け入れられない、と反発し、そのまま本来不倶戴天の敵同士の筈の極右派と左派が不信任で一致してしまい、あっさり不信任が成立した、というわけです。Barnier首相は、私をクビにしてもフランスの債務は消えない、等とほとんど捨て台詞的な牽制等をしていましたが、無意味でした。これに伴い予算案も廃案。

要するに、債務の膨張に苦しむフランス政府がそれに対処すべく予算・税制に手を付けようとしたところ、ポピュリズムに傾斜する事で近年国民の支持を高めている極右派・左派に潰された、というだけの話です。

それで、今後はどうなるのか。Barnier首相の案は潰えましたが、後任はその路線を継承出来るのか。これについては、その継承・継続は困難だろうと思われるところです。

というのも、そもそもの話、Barnier首相とMacron大統領の立ち位置は中道右派です。一般に、全体のバランスを取って妥協案をまとめるには最も適している、筈です。とりわけ今回問題になった増税や歳出削減といった根本的に意見・方針が対立するシビアな政策について、極論さえ公然と掲げる各陣営を妥協に導く事は至難の業です。比較的中立性の高い筈の彼らにまとめられないのなら、他の誰もまとめる事は出来ないでしょう。

つまり、今のフランスでは、増税や歳出削減は実現不可能だという事です。よって、その方針の継承は無意味という他ないのです。

ではフランスはこれからどうなるのか。それは誰にもわかりません。ただ、おそらく明るいものにはならないでしょう。

フランスの債務は、年間GDPを越えたそうです。日本では遥か昔に通り過ぎ、最早手遅れとして対処も諦められたそれですが、激しいインフレ下で既に年3%を越え、さらに上昇する可能性も高い金利水準もあって、財政破綻の危険性は到底無視出来ないレベルにあると言えるでしょう。日本の二の轍を踏まないためには、今ここで踏みとどまるしかありません。相応の犠牲を払って。

にも関わらず、その対策は不可能。どころか、真逆の政策を主張する筆頭の極右派が政権奪取にあと一歩のところまで迫っています。おそらく現状のまま事態が膠着すれば、何も出来ない政府・与党への国民の不満・批判はさらに高まり、極右派への支持もまた強まるでしょう。 

そして、極右派が政権を奪取すれば、財政再建どころか、積極財政へと踏み切る見込みは極めて高い、というかほぼ確実です。そのあまりに無根拠で楽観的なスタンスに、これまで政権を担った事もないために稚拙・杜撰になるだろう政策が無秩序に実行に移されるでしょう。

バランスも考慮されず、もはや支出に歯止めをかける事すら出来なくなり、債務の底が抜ける。そして爆発的に進むインフレ。一方で、既に膨大な人数に及んだ移民の排斥が始まり、社会は混乱を極める。 米国でTrumpがもたらしたものとある程度類似するだろうそれらの混沌とした状況が、政権が一体として推し進める事で、さらにスケールを拡大する形でフランスに訪れる、のかもしれません。

しかし、何も出来ない。どうにもならない。今のフランスは、そんな絶望的な状況にあるわけです。

あるいは極右派ではなく、左派が伸びて、社会保障政策の強化が志向される可能性もあるのかもしれませんが、そちらにしたところで、積極財政に傾斜するだろう点では変わりませんし、経済政策面の懸念に関しては極右派のそれと大差があるわけでもありません。

自由の国。人権の国。その行き着いた先が、分裂と対立に溢れ、終わりの見えない争いが続き、ただひたすら破綻へと向かう、しかしそれを避けるために犠牲を払おうとはしない、誰も彼もが我儘に振る舞うだけの社会だった。何とも皮肉な話です。

12/04/2024

[pol] 韓国大統領、発狂して戒厳令を宣言から即撤回、またしても弾劾へ

韓国で突然Martial lawが宣言されて世界中がびっくり。

何事だ、北朝鮮が何か仕掛けたのか、と身構えたのも束の間、数時間後にはあっさり解除されました。もちろん、北朝鮮は本件に関しては何もしていません。

大山鳴動して鼠一匹的な話で終わって一安心ではありますが、しかし、多くの人が一体何だったの?と首を傾げています。

その事情を簡単に言えば、国民の信任を失い、与党は選挙で敗北し、さらにその与党内での支持すら失(いつつあ)ってもはや何も出来なくなっていたYoon大統領が、後先考えず無理やり独裁に走ろうとしたものなのだそうです。なんじゃそら。

要するに追い詰められての発狂、いわゆるキチゲ解放とかいうやつですね。一国の大統領が。いやもう勘弁してほしいです。

その後の流れは言うまでもありません。国民の支持など得られるわけもなく、議会も与党含め総反発であっという間に取り下げに追い込まれ、さらに逆に辞職を迫られ、応じなければ弾劾による強制解任が確実視されています。

また弾劾ですか。。。Park大統領が弾劾により罷免されたのもそんなに昔の話ではないのですけれど、今回の状況はPark大統領の時より明らかに酷く、弾劾が提起されればその成立は確実とされています。

とりあえず今回の話はそれで終わりです。

しかし、なぜ韓国の大統領はこう、不祥事からのクビになるような形でしか終われないのか。韓国の大統領は再選禁止だから一期だけなのに、それを満足に務める事すら殆ど不可能というのは、個々の大統領の資質云々以前に、何か制度上根本的かつ構造的な問題があるというか、ぶっちゃけ政治体制として韓国社会に合っていないのではないかとの疑念を禁じえません。今後改善しそうな見込みも皆無ですし。

よその国の話ですから、もちろん他国の人間が口出し出来る筋合いはないのですが、流石に今回のような騒動はあまりに意味不明に迷惑だし、文句位は言いたくなりますね。もっとも、外野の声には耳を貸さないどころか逆に反発するのが常なお国柄でもあるし、そもそもなにがしか改善を図る事が出来るならとっくにそうしてるでしょうから、きっとこれからもこんな感じなんでしょう。困ったものです。他人事ですけれど。というか、いつまでも他人事であって欲しいものです。

<追記>

揉めに揉める事10日、一度は否決された弾劾決議案が2回目にして成立したそうです。一度目は与党が棄権という形で反対に回りましたが、その後大統領が戒厳令を正当化する旨の演説をした事で与党内からも反発が強まり、今回の結果に至ったとのこと。与党としては折角かばおうとしたのに裏切られた気持ちだったのでしょう。

これを以て大統領は権限を停止され、弾劾裁判に掛けられる事になるわけですが、この四面楚歌そのものの状況では罷免は免れないでしょう。お疲れ様でした。ともあれこれで一段落ですね。もう騒がせないで頂きたいと思います。まあ、韓国の国民の方が私達外野より余程泣きたい状況だろうとは思いますが。。。

11/29/2024

[note] ニュースの総ゴシップ化

ゴシップ。うわさ話。縁もゆかりもない他人についての、根も葉もない真偽不明の情報を、興味本位であげつらうもの。

ニュース情報の内にあっては、報道の対象となる公共の利害に関する事実と対極に位置付けられる、その大半が流布の正当性を欠き、それに伴ってプライバシーはじめ各種の人権侵害についてしばしば違法性を帯び、あるいは単なる虚偽・風説の流布として社会に害悪をもたらすもの。

昨今、そういう性質のニュース記事が増えているように思われます。それも、メディアの種類やニュースのジャンル等の区分を問わず、一般的に。

その種のニュースは、以前はその対象は芸能人を中心として、著名人の私生活に関する情報にほぼ限定されていました。マスメディアしか発信元がなかったのですから当然です。

しかし、近年はSNSを中心にYoutube等の動画サイトから各種のネット掲示板まで、多種多様な非マスメディアがニュースの伝達を担う場として隆盛し、マスメディアのシェアは相対的に低下を続けています。情報の種類・性質にもよりますが、多くの場合、非マスメディアで流れる二次以降の情報の情報流通に占める割合は圧倒的多数になっていさえします。

元々、ネット上の非マスメディアで流れる情報は、発信者と受信者がいずれも一次的な情報に接する事のない部外者であるために、その殆どが発信の時点で二次以降の伝聞であり、発信者の勝手な思い込み等の主観的な面も強く真偽の怪しい、すなわちゴシップ性が色濃いものです。

非マスメディア経由の情報が占める比率が増えるに従い、ゴシップ性の高いものの比率もそれだけ上がる。それは必然の結果です。しかし、それだけではない。

近年はマスメディアも含め、ニュースの流通プラットフォーム自体がネットへ移行しています。ネットがマスメディアと決定的に異なる点は、言うまでもなく、受け手側の各個人が個々のニュース(もしくはその発信元)を能動的に取捨選択する、という点です。

世に流れる情報はあまりに膨大であり、人間がその全てを見ることはおよそ不可能である以上、各個人は、基本的に自分の見たい記事しか見ません。見ることが出来ません。従って、ネット上のおよそ全てのニュースは、否応なく受け手の嗜好という容赦のない選別に晒される定めにあります。

どんな情報も、伝わらなければ無意味です。受け手に届かなければニュース事業は成立しません。受け手の興味を惹かなければそもそも見てもらえない以上、そこで最も重要なのは、記事の信頼性でも公共性の高さでもスクープ性でもなく、大量のニュースの中から受け手に選んでもらえるかどうかであり、その興味を惹けるかどうか、その一点に尽きる、という事になる。

興味を惹くためにはどうするか?

様々な試みが行われて来ましたし、今以て日夜絶えず行われてもいます。大手の新聞社等は、まず従来の紙媒体と同様に直接の閲覧料を徴収すべく独自の会員制サイトを作りユーザーを囲い込もうとしましたが、極めて限定的な効果に留まり、紙媒体の代替にはなりませんでした。次に大手のポータルと契約を結んで優先的な扱いを受けられる地位を手に入れ、こちらは概ね成功と評価出来るだけの閲覧者を得ているように思われます。しかし、ポータルの側が優越的な立場にある事から、そこで得られる広告収入等は十分なものとは必ずしも言えないようです。

それらの、情報流通の仕組み上の工夫による対処には、元より限界がありました。であれば、個々の情報の内容とその出し方を改良するより他に手立てはない、とそう考える業者が出たのも自然な流れです。興味を惹くにはどうするか、惹ける内容とはどういうものか、それらの検討がなされた結果、元々ゴシップをよく扱っていた週刊誌系を中心に少なからぬメディア事業者がゴシップに流れました。

今では、大規模な災害や政治的なイベント等の報道すべき題材が溢れている一部の時期を除き、何ら公益に関係しない、従って本来はニュースとも言えないような、取るに足りない単なる噂話や、現実性すらあやふやな予想・憶測、事実ですらない意義不明の一個人の感想や意見など、ゴシップ性の極めて強い情報がニュースとして当たり前に流されるようになっています。

その最たるものとして、スポーツ選手関連の報道が挙げられます。プロスポーツは興行であり、一事業者の私的事業に属するものです。その一環であるところの選手の情報は、本質的に芸能人の活動や生活の情報等と同種の、公共の利害とは無関係な、まさしくゴシップの代表と言えるものです。

にも関わらず、昨今では日々のトップニュースで政治・経済・社会の各種の公益に関する報道を差し置いて、いの一番に取り上げられるのです。それに辟易する人も多数発生し、知りたくもないのに強制的に情報に晒される事をハラスメントとして非難する人まで少なからず生まれている始末です。ネットニュースは勿論、従来型のマスメディアですら例外ではありません。

これは、ニュースの重要度・優先度が、受け手側の興味を惹く度合いによって決定付けられている事の象徴と言えるでしょう。つまるところ、今の社会にあっては、ニュースの本質とは話題性なのであって、内容は二の次なのです。換言すれば、内容は何でもいいのです。それが嘘であろうと。伝わる事こそが最も重要な点になっているのです。

まさしく本末転倒です。

見出しにも、"たった一つの"、"本当の"、"驚きの"、 "真実"、"ウソ"、などなど、胡散臭い誇張的な表現を用いるものが増えました。ネット普及以前は、一部の、信憑性が極めて低いとされるゴシップ系の週刊誌等でしか見られなかったようなそれらが、ニュースサイトでは報道記事と区別される事なく、同列のものとして並べて表示されています。そして、アクセス数の上位にはむしろ通常の報道記事よりゴシップ系の方が遥かに多くランクインするのです。

アクセス数の多さ少なさは、そのまま収益の高さ低さに直結します。でっち上げの記事より、一次情報に近く、裏取り等も行う報道機関等の記事の方が遥かにコストは高い筈ですが、受け手の興味を惹かなければ、その胡散臭い記事よりも劣った収益しか得られません。

結果、マスメディア等の側も、収益を得るために、ゴシップ記事に負けない程に受け手の興味を惹くような外観を個々の記事に備えさせる必要に迫られる。かくしてマスメディアの発するニュースも、ゴシップのような外観を呈するに至るのです。

その上、受け手の獲得競争は、ニュースの発信から撤退しない限り、際限なく続きます。最初は外観の調整から始まったそれは、あっという間にエスカレートするでしょう。何せ競争相手は殆ど無限にいるのです。総量も膨大。溢れるゴシップに埋もれないよう対抗するには、こちらも量が必要。以前のように一つの記事に時間をかけてもいられない。となれば、情報の質は犠牲にせざるを得ない。

そして、マスメディアの発する情報にも大量のゴシップが入り込むようになります。

背に腹は代えられない。以前であれば、報道機関の倫理等で歯止めがかけられていたそれも、事業の存続のためには仕方ない、と正当化されるでしょう。明らかな犯罪以外は何でもやる。やらなければ生き残れないのだから。製造販売業等のその他の事業者と同じです。メディアの営む報道事業の公共性がいかに高かろうと、あくまで私の事業である以上、競争に晒された時点でそれは殆ど必然の成り行きなのです。

結果、溢れ返るゴシップ記事。ゴシップでない記事も、見出し等はゴシップと区別が困難なものが当たり前に流れ、もはやニュースサイトは総ゴシップ化してしまう。虚偽と事実が渾然として区別も困難になり、何を信じていいのかもわからなくなる。

それは、事実を伝える事で公益に資する、という本来のニュースの社会的機能が失われるに等しいのではないか。すなわち、ニュースの死と殆ど同義なのではないのか。 

まだ完全にそうなったわけではないようには見える。しかし、既にその時は目前に迫っているのではないのか。あるいは実質的には既に一線を越えてしまった後なのではないか。昨今のニュースの有り様を見ていると、そのような事を考えてしまうのです。

11/25/2024

[note] デマの沼に沈みゆく社会

今回はデマの話です。長いです。多分今まで書いた記事の中で最長。

要点だけ言えば、"陰謀論的なデマが盛んに流れるようになってしまった昨今、悪影響も甚だしくて遺憾な限りだけどどうしようもない、残念"というだけの話です。興味を持つ人なんていないでしょうけど、それでもいいという奇特な方はどうぞ。では。

 

Demagogy。主に政治的な目的の下、意図的に流布される虚偽情報の事です。単なる流言飛語を指す事も珍しくありませんが、要するに嘘です。

嘘なんて普通はすぐにそうとわかるし、真に受けて行動すれば馬鹿を見る事になる。周囲にも馬鹿なやつだと軽蔑される。相手にもするべきではない。

世間一般的に、そういうものだと思われて来た、筈です。殆ど誰もが、情報として、あるいは実体験を通じて、多かれ少なかれ理解しているでしょう。嘘をつくのは悪い事だし、嘘に騙されるのも良くない事だと。デマなんて無視されて、あるいはそれを流した者もろとも軽蔑されて終わりだと。

しかし、近頃では必ずしもそうではないようなのです。

近年、やけにデマが流れる事が増えたと思うんです。特に陰謀論的なものが。いえ、増えたという表現は控えめにすぎるかもしれません。何か不祥事や事件が起きると、ほぼ決まってどこそこの組織の陰謀だとか、情報操作だとか、何の根拠もなく無関係な第三者を非難し、容疑者らを擁護し、被害者や告発者を貶めようとする言説が飛び交う様を目にするようになりました。公然と。

それどころか、別段事件とも言えない、単なる日常的な利害関係の衝突や意見の相違でしかないような些細な争いにも、外国や官僚、宗教団体、果ては架空の勢力やらまで持ち出して、その陰謀だと断定さえする言説が公然と流れる始末です。何らの具体的な証拠も根拠もなく。もちろん合理性もない。

そして、それを真に受け、真実だと信じ込み、その扇動に加わる人が多数派になる、等という極めて遺憾な事態さえ起こっているというのです。

リテラシー教育の敗北とでも言えばいいんでしょうか。そういう面はあるでしょう。しかしそれだけで済むような、そんな単純な話とも思えません。

デマも情報、流す人、流した人が現実にいます。彼ら彼女らが、上記のようなデマを流す理由は容易に想像できます。金銭を主とする、その利益のためです。デマが流れるのは決まってネット上の情報サイトです。その多くは広告収入がほぼ唯一の収益源で、そこに記事等を提供するライター等も含め、その提供する情報に多数の人の注目を集める事が事業の主たる目的になっています。すなわち、多数の人の興味を惹く必要があるわけで、そのためにデマを利用している、それだけの事なのだろうと。

それは事業なのですから、瞬間的な興味を惹起するだけでは足りず、ある程度の継続性がなくてはなりません。そのためには、嘘だと見破られ難く、かつ嘘だとわかっていても興味が惹かれ、また信じたくなるような内容が適切であり、その条件を満たすものとして解となったのが陰謀論的なデマ、という事なのでしょう。

では、その陰謀論的なデマがなぜこのように社会現象と言えるだろうまでに広まるのか。そこを理解するには、その性質を明らかにする他はありません。

デマはでっちあげであり、嘘です。その真偽を明らかにするには、一般にそれと対立するところの真実に相当する命題との比較を必要とします。無論、詳細に比較するまでもなく一目瞭然な事も少なくありませんが、情報によっては、各種の機密やプライバシーに関するもの等、その性質上秘匿性が高く、真偽の検証が困難なものもあります。

陰謀論の主たる対象はまさにそのような秘密に類する情報です。本来、不特定多数は知り得ないもの。秘匿情報。そのような話は元々の性質として広く流布される必然性が低い筈です。何せ秘密なのですから。

逆に言えば、秘匿性が高いはずの情報が広く流布されるという事は、その時点で虚偽の可能性が非常に高いと言えるのです。しかし、実際にはデマとして成立しています。これは、まさにその秘匿性によるものだと思われます。その理由は以下の通りです。

デマが成立するために必須の条件として、その非真実性が(一目瞭然レベルで)証明されない、という点がある事に異論はないでしょう。一般人が前提情報なしに一見して嘘と断定出来ない、という事です。そうでなければ、そもそも殆ど真に受ける人が生じず、流布されないでしょう。その意味で必須の性質と言うべきものです。

秘匿性の高い(筈の)情報は、この点に合致します。

この種の秘匿情報に関するデマは、およそ完全なでっちあげにならざるを得ません。通常デマを流す側は実際に情報に接する当事者ではない以上、真実を知っている筈がないのですから当然です。しかし、完全な嘘であっても、その判定に必要な、対立命題であるところの真実自体が秘匿されているが故に、その虚偽性が明白には否定され難いのです。

さらに、真実の流布による否定を考慮する必要がなく、その内容全てを創作できる、つまりでっちあげられるという事は、デマの内容を流布者が何らの制約も受けず自由に調整出来るという事であり、すなわち内部的な矛盾をあらかじめ解消出来るという事でもあります。

それによりデマ自体の内容のみによるその真偽の判定が困難あるいは不可能になる。すなわち、その真偽の判別には、デマ以外の情報による整合性等の検証が必要になるわけです。それには多かれ少なかれ一般教養的な知識が必要になるし、手間もかかる。その種の知的活動に慣れた人なら息を吸うようにこなせるそれらも、一般の人にとってそのハードルは決して低くはない事もあるでしょう。こうして、デマはその完全な虚偽性の隠蔽に成功するのです。検証さえされなければそれらしく聞こえる話を、真実だと錯覚してくれる、騙されてくれる人が大勢いるのですね。

というわけで、秘匿情報を称するデマの内容は、必然的にでっちあげ、すなわち架空のものになるわけですが、無論架空のものなら何でもいいわけではありません。例えば神や宇宙人など、現実味が全く無いものを持ち出しても、流石にそれを広く信じてもらえる可能性は低いでしょう。(ゼロではないにせよ。)

ここに陰謀論が嵌まり込みます。必ずしも友好的とは言えない外国、上位官僚のような権力を持った組織、独自の価値観を持つ宗教団体、主義主張傾向の類似する個人の集団など、その陰謀を実行する動機と能力を持っていると設定し得る、しかし実際には存在せず、それでいて即座に否定されづらい程度にその確認が困難な、すなわち秘匿情報と同じ性質を持つような主体。デマの内容と矛盾しないように選ばれたそれは、デマの主題と調和し、内部的な整合性をもたらし、それがデマの自己完結的な真実味を強めるのです。

それらの架空の勢力の意図は、理論的には何でも良い筈ですが、ほとんどの場合は社会的な悪事が設定され、必然的に勢力の性質は社会悪的な属性を帯びる事になります。理由は色々考えられますが、端的に言えばこそこそと公の耳目から隠れて行われる活動である以上、その方が動機として自然で、人々に受け入れられやすいという事なのでしょう。後ろめたくないのなら公然と活動している筈だ、秘密にしているのは悪事だからだ、という理屈なんでしょうね。(空論と評する他ないような稚拙な理屈ですが。)

知られざる架空の勢力が企む架空の悪事。あらゆる面で嘘しかないけれど、嘘同士が整合している、ただそれだけの理由で真実味が出る。その意味で、陰謀論ほどデマの対象として都合がいいものもないのでしょう。これを隠された真実、等と称して流せば、そのように受け取ってもらえるというわけです。

さて。かくしてデマは生み出されて広まり、流布者は多数の信者を獲得して、サイトは広告収入で潤い、承認欲求は満たされ、愉快犯は流される人々を見て笑い、各々の経済的、政治的な目的も達成されるだろうわけですが。それらが不当な利益であるという点は別にしても、それら利益を遥かに超える損害、悪影響も生じます。

元より、デマを信じる事自体は個々人の内心に留まる限りは各人の自由です。ですが、実際には内心に留まらず、しばしば行動となって周囲・社会に直接的な影響を及ぼします。何せデマの多くが陰謀すなわち悪事に関するものなのですから、それに対する反応は反発的になり、必然的に攻撃性をも帯びやすくなります。正義の戦士になるとかいうやつですね。そしてその自己正当化された正義感に基づく行動は、誹謗中傷や謂れのない非難、諸々の妨害行為、時には暴力等という形を取り、直接間接に無関係な人が不当な被害を被ってしまうわけです。勝手に悪の組織認定された向きも含めて。

そのような事態は当然ながら許される事ではありません。多くの場合は刑法上の犯罪にも該当します。しかしながら、デマにより影響を受ける人はあまりに膨大であり、当然被害者も多数かつその実害の態様も多岐に渡り、事態の変化の速度も極めて速い事もあって、司法上の対処は極めて困難です。そのため被害を被る側にはそれを予防ないし防止する術がなく、少なくともそのデマが流布している間は、その被害を甘受せざるを得ない状況が続く事になる、というのが現状です。事後の対処にしても、かろうじて直接的な被害のあった場合に、その内の少数につき発信元の開示からの民事訴訟等の手続等を取り得る程度ですね。殆どの場合、損害賠償の請求すら困難です。

デマに流されている人にはその自覚はなく、根拠も整合性もない陰謀論を信じ込んでしまい、陰謀を企み不正を行う敵勢力と戦っているつもりなのであって、それを否定する言説はそれがどのようなものであれ陰謀の一環と捉えて拒絶してしまう状態なのです。要するに聞く耳を持たない。敵と看做されたが最後なのですから、被害者側からはどうしようもありません。

それどころか、デマを信じる彼ら彼女らは、内容の如何によらず、その事について批判を受けるとそれに反発します。その際、自分達は根拠もなくデマを信じ込んでいるにも関わらず、しばしば批判の根拠となる具体的な証拠の提示を求め、その一方で全く証拠性も信頼性もない動画等を根拠と称して自己の正当性を主張します。その動画の情報はなぜ信用出来るのか、少しでも自身の認識の実情とその根拠を省みて検証すればそこに何ら証拠性がない事は明らかなのにも関わらずです。

しかも、彼ら彼女らは、相互にデマを補強し合いさえします。私だけじゃない、仲間は大勢いるじゃないか、というわけです。そのような状態の彼ら彼女らに、客観性というものは存在しません。説得力もありません。自分の、自分たちの信じたい事、信じている事が真実であり、それに反するものは全て間違いなのだと。程度の差こそあれ、そのような状態になっています。周囲に同意や共感を求め、敵を排除し、団結を強める事もある、という事です。

ここに至って、デマを一種のカルト、すなわち宗教と同一視する事が正当化し得るわけです。宗教の一般的な概念になぞらえれば、デマは教義、ないしは神託であり、それを流した者は伝道者であり、そこに記された悪事を行う者は忌むべき悪魔であり敵、自身は神託に導かれた敬虔なる下僕。そのように表現できるでしょうか。

しかし、この宗教には、決定的に欠けているものがあります。神です。一体彼ら彼女らにとっての神は誰で、一体何処にいるのでしょうか? 

流布者ではないでしょう。流布者はあくまでデマすなわち教えを伝える役割を担っているに過ぎません。陰謀論?それも違います。彼ら彼女ら自身は陰謀論自体を認識すらしていません。では自分たち自身が神か?そうだとすればその精神は破綻していると言わざるを得ませんが、あるいはそうなのかもしれません。社会的な正義という抽象的な概念を神格化し、自らをそれに与する者ないし体現者としてその行いを正当化する。そういう見方も可能かもしれません。

眼前に晒された悪に対し、自ら正義の鉄槌を下すもの。その行いは純然たる私刑であり、法治国家にあっては違法行為に他なりません。それを公然と行い得る権限を持つのは法の授権を受けた司法機関のみであり、私人に過ぎない一般人にその権利はない。にも関わらず私刑に及ぶのであれば、そこには法を超える根拠が必要になります。

彼ら彼女らは、無意識の内に、自らを、法の上位にあるもの、すなわち神に等しいものと位置付け、正当化しているのではないでしょうか。自分が正義、すなわち法であり、個別の事件につきその正当性を担保するのがデマだというわけです。無論、そのような文字通りの狂人染みた思想を持っているというわけではないでしょうが、多少なりと類似した性質の論理に基づいて行動しているのではないかと思われるのです。

かくして、人はデマに流される。デマがその目的を達した後も、一度発生したその流れは止まらず、人々は流され続ける。一つのデマが終わろうが終わるまいが、毎日のようにデマは発生し続け、その度にまた流される。時にそれは濁流となって無関係な、何の罪もない人々を飲み込んで傷つけ、溺死させ、その生活を破壊する。流された者は戻らず、破壊されたものが修復される事も、償われる事もない。時に流れは合流してその勢力を拡大し、土地を汚染し、あるいはそこに住む人もろとも水没させる。残されるものは何もない。

常識も倫理も論理さえもデマに飲み込まれる、そんな社会でいいのでしょうか。いいわけはない。だけれど、止められない。デマの沼、いや濁流に飲み込まれゆく社会を前に、傍観者として無力感と絶望感を抱く日々なのです。

11/14/2024

[pol] インフレに翻弄される米国、その先に待つもの

米国の選挙が(ほぼ)終わりました。共和党の完勝という形で。

要因はもちろん多岐に渡りますが、本質的には激しいインフレに伴う一般市民の生活苦に起因する民主党政権への不信任によるものと思われます。

現大統領Joe Bidenはインフレにはほとんど無力だった上に認知症による醜態を晒して失望を深め、その後継として擁立されたKamala Harrisもその主張が理念優先で具体性に欠け、実生活の改善を期待し得るものではなかった事で、今まさに生活に苦しんでいる層から決定的に見放される事になったのでしょう。

また、大統領選では通常は現職が知名度で勝り、実績をアピール出来る分有利なところ、知名度は圧倒的にTrumpの方が有利であり、現職の副大統領であるHarrisは、やろうと思えば今すぐ政策を実行出来る立場にありながら何もしようとしない、従って実績は皆無な上に期待も出来ない、との評価を覆す事が出来ず、むしろTrumpの方が有利な状況でした。

結果、その母体である民主党もろとも不信任を突き付けられた、とそれだけの事なのだろうと思われます。インフレ下では現政権は負ける、というセオリーに従った、至極当然の結果と言ってよいのでしょう。

それで、要するにインフレを何とかしろとの米国民の意思を受けてTrumpと共和党は次期政権を担うことになるわけなのですが。。。正直言って、彼ら彼女らが、それが果たせると本気で考えている人はどれくらいいるんでしょう。

周知の通り、米国の物価は、ここ数年で2倍3倍と急激に上昇しています。ただでさえ自由経済下での物価の制御というのは困難極まりない話ですし、一度インフレしたものを元に戻すのはとりわけ困難というか、ほとんど不可能なのです。それも今のような状況を修正するなど、どうすればそんな事が出来るのか、想像するのも難しい。

そもそもの話、Trumpと共和党はインフレ対策についてはほとんど何もコミットしていません。明言しているのは、移民の排斥と関税を増やす事だけです。それらは(安価な)人的リソースの減少並びに輸入品価格の上昇を招き、インフレを加速させる方向にしか作用しないでしょう。

また、Elon MuskがTrump支援者の代表のような立ち位置にいますが、彼は常にTesla株をはじめとした(自己の有する)各種資産の評価額の上昇を図り続けるバブルの申し子であり、すなわちインフレを主導する立場の人間です。今回のTrump支援も、(EVバブルの終了で陰りが見え始めていた)保有資産の価値を維持する事がその主たる目的の一つだったと見て間違いないでしょう。そんな彼が政権の中枢にいて、インフレの抑制が図られるわけがありません。

結局のところ、インフレに苦しむ一般市民が、その苦しみから現政権に失望して不信任を出したわけなのですが、反射的に信任を受け、次の政権を担う事になった共和党とTrumpは、インフレを修正するどころか、さらに悪化させるだろうとしか考えられないのですね。

そして、その想像が現実になった時、当然に再び政権に失望するだろう多くの米国民は、次は一体どうするのでしょうか。また今回と同じように共和党に不信任を突きつけ、漫然と民主党政権に回帰するのでしょうか。それとも、誰にもどうする事も出来ないという現実に絶望し、もはや期待する事すらしなくなってしまうのでしょうか。

いずれにせよ、大した違いはないのかもしれません。結局のところ、人々の抱える苦しみを取り除く事は誰にも出来ないという事なのですから。そして、その苦難が厳しさを増す一方で、苦難とは無縁の、圧倒的少数派の資産家達はその富を膨張させ続けるのです。自由の国アメリカ、その名の下に。

[pol] Old man leaves. Who comes next?

10/28/2024

[pol] 混迷の時代を迎えるにあたって

2024衆議院選挙が終わりました。結果は事前の予想通り、自民公明の与党の過半数割れです。

しかしこれは政権交代を必ずしも意味しません。とりわけ維新と国民民主の2党は立民や他の野党と様々な面で対立しており、連立政権の構築・運営には相当な困難が見込まれます。一方で、自民政権が続くとも言えません。今回の選挙の主たる性質、すなわち与党への不信任の結果として議席を得た野党各党が、その有権者の意思に明らかに反するだろう自民との連立を許容するわけにはいかないでしょうから。

と言っても、自公と立民の協力はおよそあり得ない以上、結局のところ基本的には二択です。自公+野党の一部の連立か、立民軸の全野党連立か。いずれにせよその成立は容易ではなく、仮に成立したとしても極めて不安定なものになるでしょう。離合集散が頻発する可能性は極めて高く、従来はよく起こったところの自公共以外からの一部議員の離党からの自民への合流での決着が今回は経緯的に困難な事も相俟って、相当の期間に渡って混迷が続くだろうと予想されています。

が、従来の与党、自公政権に明確に不信任が示されたのですから、それも致し方なしです。米英のような歴史に裏打ちされた政権交代の仕組みを育ててこなかった日本においては、政権の不信任に混乱や機能不全が伴う事は避け得ない、それは自明という他ないのです。

もっとも、それは必ずしも悪い事ではありません。おそらくは個々の議題毎に各々が是々非々で臨む事になるのではないかと思われますが、そうだとしたらそれはある意味、国会が本来の意味で機能するという事でもありますから。言うまでもなく大変な仕事ですが、国会議員には、その職責に耐えうる人を全国民の代表として選んでいる、筈です。少なくとも建前上は。高齢だから困難だとか、世襲だから能力が足りない等という言い訳は通用しません。もちろん経験不足とかいう泣き言も論外です。

当然ながら、内閣も作らねばなりません。首相は誰にするのか、大臣はどこからどう選ぶのか。政策はどう作るのか。野党がとりあえず一度は諸々飲み込んで連立するとして、即内部対立から不信任で再び解散、などという不毛な事態を暫くの間でも避ける事は出来るのか。首相公選制ならその心配の大部分は無用だったはずなのですが、日本がそれを承知で議院内閣制を採っている以上はどうにもなりません。制度の枠組み内で最善を追求する他ないのです。

ともあれ、今回選出された議員諸氏には、徒に感情や建前に固執する事なく、各々の課題・問題・議題に応じて、対話をもって譲るべき所は譲り合い、現実的で合理的な落とし所を見出すという議会と議員の本来的かつ基本的な仕事を粘り強く遂行される事を願います。

その結果、何も決まらない、行政の運営にも難儀する、というのであれば、それはそれで仕方ない事なのだろうと思うのです。その困難から逃げ続け、漫然と自公に政権を委ね続けた結果が今なのであって、その悲惨な帰結に直面し、国民として拒否の意思を示した以上は、どんなに苦しくとも立ち向かうべきなのだろうと思うのです。この先にどんな挫折や後悔があろうとも、あるべき姿を求めて努力を続ける、後戻りだけはしない、そういう強い意思を、議員ひいては日本国民が備える事を願うのです。斜陽の国、日本の先行きに幸いのあらんことを。

[pol] 国政を放棄した自民党、虚しく醜い内ゲバ選挙

10/15/2024

[pol] 国政を放棄した自民党、虚しく醜い内ゲバ選挙

衆議院が解散され、選挙が告示されました。

建前上は国民に信を問うなどと言ってはいますが、実質的に自民党内の勢力争いが主要因・主目的である事は明らかです。要するに、裏金関連での数々の犯罪行為の責任転嫁&切り捨てを兼ねた内ゲバあるいは粛清の手段として衆院選を利用しようとしているわけです。かつてこんな醜くも虚しい選挙があったでしょうか。無論選挙区単位なら幾度となくありましたが、主要な派閥単位、すなわち全国的にというのは記憶にありません。

言語道断という他はありませんね。そんな自民党内部の事情を国会に持ち込み、立法府としての責務を放棄するのみならず、数百億は下らないだろう選挙費用を浪費し、国民に負担を強いようというのですから。自民党議員に国会議員としての資格はなく、また自民党に政権与党以前に国政政党としての資格すらないものと断ぜざるを得ません。

率直に言って不快です。その存在ごと、この世から消えてくれませんかね。

10/02/2024

[pc] Ubuntu22.04LTS->24.04.1のアップグレードが途中で落ちて再インストールの憂き目

色々酷い24.04LTSですが。またしてもトラブルに遭遇してしまいました。

何かというと、22.04LTSからのアップグレード失敗です。サブPCのアップグレードをしようとしたら失敗してしまったのです。

当該PCは、十年以上前からサーバー兼作業用として使用していたものですが、流石に古くなったので時折以前の環境を確認するためのサブとして保守しているだけのものでした。なので、現在はサポートされていない古いバージョンのアプリや、既に存在しないサードパーティのリポジトリから取得したパッケージ等も色々残っていました。どうもそれが24.04.1のアップグレーダーのバグに引っかかったらしいのです。

きっかけになったパッケージは古いpostgresqlです。具体的には、update-manager実行時に、

"アップグレード作業を見積もれません。アップグレードの計算中に解決できない問題が発生しました。postgresql-9.3は削除対象としてマークされていますが、削除拒否リストに含まれています。"

というメッセージが出て、アップグレードが進まなくなったのです。で、当該パッケージ(postgresql-9.3)を削除して再試行すると、今度はpostgresql-9.5で同様のメッセージが出て止まります。

そして、postgresql-9.5を削除して再実行すると、今度はupdate-managerが(エラーメッセージを出すこともなく)クラッシュしたのですね。

で、その後にupdate-managerを起動してみると、リポジトリ等は既に24.04.1用に切り替わっていて、多数のパッケージがアップデート(アップグレードではなく)の対象になっている旨が表示されます。つまり、アップグレードプロセスが中途半端に進んだ状態で、パッケージの更新等が行われる前にぶっ壊れてしまったというわけです。システム上は24.04.1になってしまっているので、アップグレードをやり直すことも出来ません。

しかも迂闊な事に、当該システムのバックアップは取っていなかったのです。滅多に使うこともないサブPCのアップデート作業にそんな手間をかける気にならなかったからなのですが、甘かったと反省せざるを得ません。無念です。

これはもうaptの修復等でどうにかなるレベルではないと判断し、諦めて別のシステム用ストレージを用意して、クリーンインストールのち必要な部分を手動でコピー&再構築する羽目になってしまったのです。あーあ。

もっとも、既にほぼ使用していないPCではあったので、流石にもういらないだろうという所も多く、再構築にはさほどの時間や手間がかかったわけではないのですが、完全に徒労でしかないという事もあって、精神的にはこの上なく疲弊しました。

無理やりポジティブに考えるなら、LTS版間のアップグレードですら古いパッケージやリポジトリ類が不整合を起こすようなら、仮にアップグレードが成功していても早晩同様の問題が発生してクリーンインストールをする羽目にはなっていた可能性は高いだろうし、いい機会だったと思うべきなのかもしれませんね。皆様もお気をつけ下さい。あるいはお覚悟を?

[note] Ubuntu24.04.1がようやくリリース 

[pc] Ubuntu22.04LTSから24.04LTSへのアップグレードに伴うDNS周りの障害について

9/20/2024

[pc] Ubuntu22.04LTSから24.04LTSへのアップグレードに伴うDNS周りの障害について

 色々、そう色々ありましたが、実施してきました。22.04LTSから24.04LTSへのアップグレード。それもserver版です。正確には24.04.1へのアップグレードですが。

致命的バグが発覚したために一旦取り下げになっていた24.04.1へのアップグレードパスですが、それほど時間を置く事もなく再開されました。ので、ストレージをまるごとバックアップしていざ実行。普通にdo-release-upgradeです。

結果は一応成功。しかし当然のように問題がいくつも発生しました。以下にその中でもひどかったものを2点抜粋します。いずれもDNS関連です。

1.  ローカルホストの名前解決に失敗

 これは意味がわからないかもしれません。私も意味がわかりません。具体的には、アップグレード後に、sudo等の、おそらくはホスト内の特定プロセスにアクセスする際にローカルホストのIPにアクセスする類の操作の際に、遅延が生じ、ローカルホストの名前解決に失敗した旨のエラーを吐くようになったのです。その結果、各コマンドの実行の度に何十秒から遅延するので、まともに作業が出来ません。改めて書いても意味がわかりません。何で・・・?

 まあ、バグに理由を求めても仕方ありません。解決方法は簡単です。/etc/hostnameと/etc/hostsを修正するだけです。

/etc/hostnameの方は、私の環境ではなぜかホスト名の前に謎の文字列が数文字追加されていました。余計な文字列を削除してホスト名だけに。

 それでも解決しなかったので、/etc/hostsの、localhostが記載されているところ(127.0.0.1と::1のところ)にローカルホスト名を挿入しました。これで解決。

 しかし何なんでしょうね。ホスト名の名前解決のルーチンにバグが入ったっぽいですけど、何でそんな事になるんだろう。

2. DNSの機能不全

 こちらはだいぶ深刻です。全ての名前解決に失敗するようになったのです。アップグレード直後は問題なかったのですが、そこから一度アップデート->再起動をしたらその後から発生するようになりました。もはや何も出来ません。推測される原因は、24.04LTSではDNS関連はsystemd-resolvedに移行しているのですが、その辺のアップグレード(もしくはコンポーネントそのもの)に不具合がある、という事なのだろうと思うのですが。

 なお、先にアップグレードしたクライアントPCでは同様の問題は生じていません。ここから考えられる事としては、クライアントPCではネットワークインターフェースはイーサネット1つのみですが、当該サーバーでは複数のネットワークインターフェースを有しているのでその辺りが原因じゃないかと推測されます。

 補足すると、今回採用されたsystemd-resolvedでは、複数のネットワークインターフェースがあってそれぞれdhcp等で別のDNSが割り当てられる場合、デフォルトで各々のDNSを参照するようになっているのですが、そのルーティング等が上手く動作していないんじゃないかと。また、この他にGLOBALのDNSサーバも設定できるようになっています。チェックしてみたところ、GLOBALも含めいずれのDNSサーバーも有効な状態でした。にも関わらず名前解決は失敗するのです。わけがわかりません。が、考えてもどうにもなりません。何なんでしょうね。

 解決方法は、本来的にはsystemd-resolvedの設定修正等で解決するのが正攻法だと思うのですが、そのやり方は色々試したものの今の所成功していません。ので、差し当たり従来のresolv.confに戻しています。手順は簡単ですが、一応記載しておきます。以下の通り。

2-1. /etc/resolv.confの書き換え

 /etc/resolv.confは、24.04のバージョンではシンボリックリンクになっています。ので、リンク先を別のファイルに変更します。例えばresolv.tmpfix.confというファイルにするなら、

 $ sudo ln -sf /etc/resolv.tmpfix.conf /etc/resolv.conf

等とした上で、/etc/resolv.conf(/etc/resolv.tmpfix.conf)に従来の通りにDNSサーバーを書き込みます。

 例: nameserver 8.8.8.8 nameserver 1.1.1.1

 ※上記は、cloudflare提供のDNSサーバー(8.8.8.8,1.1.1.1)を設定する場合

 普通は各々適切なDNSがあるでしょうからそれを設定します。

そしてDNSを再起動。(別にしなくてもいいかもしれません。念の為)

 $ sudo systemctl restart systemd-resolved.service 

これで一時的にDNSが復旧します。

なお、DNSが設定されているかどうかを確認するには、下記コマンドを使います。

 $ resolvectl status

他にも色々問題はありますが、とりあえず大きなものはこの辺り。お疲れ様でした。

[note] Ubuntu24.04.1がようやくリリース

<追記>

さらに別のPCでひどい目に。

[pc] Ubuntu22.04LTS->24.04.1のアップグレードが途中で落ちた 

9/06/2024

[note] 不相応は不幸の元

だと思うのです。

何かというと、秋篠宮悠仁親王の進学先についてなんですけれども。東大にAOで推薦入学するつもりとかいうアレです。

筑駒にほとんど裏口同然で入学し、さらに東大にAO枠で推薦入学する。真偽は定かではありませんが、それが本当なら、事実として学力面の客観的評価抜きで入学する事になるわけです。

勿論、皇室特権云々の面からの非難も免れませんし、それはそれで相当な問題ですが、それ以前の問題として、そんな無理して東大に入ったとしても、純粋な能力が追いついていなければ、ついていけないんじゃないでしょうか。

というのも、このクラスの、純然たる学力面でのトップクラス層というのは、タイプは様々ですが、皆一様に頭がいい人ばかりです。理解力は抜群で、かつ頭の回転は早く、いわゆる一を聞いて十を知る、を当たり前に出来るし、その上学ぶ事について貪欲です。要するに、才能があって、努力も出来る。そんな人ばかりです。

そして、東大や京大のようなトップクラスの大学というのは、基本的に各分野での次世代を担う研究者や開発者の卵が集う場所です。特に理系はそうです。

勿論、東大卒、京大卒という肩書に一定の価値があるのは事実ですし、その取得を目的とする人がいないわけではないでしょうけれども、それはあくまで結果に過ぎません。学問を追求し、最先端の研究開発を担い得るレベルまで到達するというのは、言うまでもなく特別な事です。相応の、特別な能力を備えた人が、さらにその人生を捧げる程の努力をして初めて成し得るのです。そこまでしてもなお夢破れる事も当然にありますが、その逆はない。そのプロセスなしに結果だけを求めて得られるような甘いものではないのです。

高校での勉強、また大学入試というのは、その常人では到底ついていけないだろう大学での制限・制約の一切ない難解かつ膨大な勉学、またその後の研究開発等の仕事を成し得るだけの素養、知的能力面の前提を備える人を選別しているに過ぎません。実際、筑駒の生徒レベルであれば、大学入学は目標ではなく、その先にある本当の目標を目指すための、ただの通過点と捉える子が殆どでしょう。 

筑駒等の最上位の進学校は、そういう、実体を備えた文字通りの知的エリートを目指す、才能も意欲もある学生達が集い、各々の目指す未来に向けて競い合って勉学に励み、元より非凡な能力をさらに高め合う場所です。そのような環境にあって、その目指す所を考えれば、大学入試など乗り越えて当然のものな筈です。

実際、入試の問題には大学以降では知っていて当然の基礎的な内容しか出題されません。それも、高校までの学習内容を元に解けるように調整されています。その大学に入るなら、それが解けるようでなければいけない、その基準を示すものです。

にも関わらず、その受験そのものを回避しようとする事自体、適正がない事の証明でしょう。必要な水準に達していれば解けるように調整された入試問題を解く事すら出来ないのに、どうしてその後の、入試とは比較にもならない、大学以降での高度かつ果てしない勉学や研究活動をこなしていけると言うのでしょうか。

どの分野でもそうですが、能力の差、適正の有無というのは残酷です。人は平等ではない、その事を厳然たる事実として現実に突き付けられるからです。とりわけ、誰もが子供の頃から最低限は平等に機会が与えられ、そこで他者との比較を余儀なくされる学力の差は最も残酷なものと言えるでしょう。

どうにかしようとしても、どうにもならない。不可能。その最たるものが、個々人の知的能力の差というものです。秋篠宮悠仁親王の進学先とその方法を巡る一連の問題は、結局のところ、その残酷な事実を受け入れられない周囲がなまじ(事実上の)権力を持っているがために、その政治的権力によってその絶望的な格差の壁を回避させようとして起こった悲劇、という事のように思われるのです。

そんな無理をしても、誰にとってもいい事はありません。無論、本人にとっても。

想像してみればいいでしょう。分不相応な期待、立場を押し付けられ、最上位の進学校に放り込まれて出来る筈のないレベルの学問をこなす事を求められる。当然出来ない。しかし周囲は当たり前に出来る。同級生とは理解し合えず、その立場も相俟って腫れ物扱い。同情する者もいれば、軽蔑する者もいる。いずれにせよ互いに尊敬し合うような対等な関係は望むべくもない。もちろん、陰口は数え切れず。推薦入試関係では、そのあまりの不平等・不公正から憎悪の対象にすらなっているかもしれません。

地獄です。しかも、その格差は先に進めば進む程広がっていき、最終的に研究者等になれば、各人の生み出す結果が全てになるのです。皆が同じ道を歩んでいるように見える高校位なら、裸の王様のように気づかずにいられるかもしれませんが、各人で道の分かれる大学以降ではそれも不可能です。いつまでも一人、皆が遥か以前に乗り越えた壁の前で取り残されるだけになるでしょう。

そして残るのは、権力の濫用によって不正に手に入れたと評価されるだろう学歴だけです。それは名誉とはなり得ず、むしろ拭い難い汚点として認識されるでしょう。憲法の改正がない限り、将来の天皇、日本の象徴となるだろう人がです。立場上、忘れてもらう事さえ出来ません。

もっとも、そういうあれこれが全て外野の妄想で、実際には十分な能力があり、一般入試を受験して普通に合格する、というなら何の問題もないわけですけれども。その場合は、全て杞憂だったという事になります。残念ながらその可能性は極めて小さいでしょうけれども。もしそうなら、今のような状況にはそもそもなっていなかったでしょうから。

何事も、分相応にして、無理はしない事です。権力はそんな常識も歪めてしまうのだという事を突き付ける一件だと言えるでしょう。少なくとも周囲は目を覚ますべきですね。