9/15/2014

[note] 朝日新聞の捏造で再確認する、報道への適切な接し方。

朝日新聞による捏造の件。同業各社の中には同社による過去の類似ケースの掘り出しに熱心な向きもあるようですが、そろそろ一通り出尽くした感じでしょうか。

本件はそれこそ至る所で数え切れない程報じられ、論じられている話ですから、今更私個人が何か考える意味も無いでしょう。とはいえ、既存大手メディア業界の時代を画する可能性もありますから、それらのメディアに対する接し方、情報の受取方について整理する機会かとも思うわけで。

事件の内容、その評価自体には取り立てて何も思うところはありません。多分にその偏った政治的主義主張の実現を目的として虚偽の報道を繰り返し、長年に渡ってその過ちを認めるどころか主張を重ねて拡大し続け、その不正を認めてなお責任回避を図る、そのあまりに姑息な振る舞いは報道機関としては勿論、企業経営の観点からも論外の愚行と言う他ないものであって。犯罪ではないために事業の存続に疑義が付くほどではないにせよ、信頼回復は絶望的、あるいは膨大な時間が必要になるでしょう。関係者の言からいまだに自らを被害者と捉えている節が見受けられる点からしても、そもそも回復が可能なのかすらも現時点では定かではありませんが。

そういった本事件の個別具体的な話はさておき。前置き的に個人的な話をすると、一般に報道機関には事実の伝達以外の何も求めていませんし、書き手の分析や表現方法等、それ以外の情報は原則全て無視しています。一個人や営利組織の意見として参考にする事はありますけれども、元よりそれ以上の意味があるとは思っていません。

その事実にしたところで、情報毎にその正確性を多少なりと評価し、事実と判ずるに足る根拠を見出して初めて事実として受け取る事にしています。従って、本件のような、その重大性にも関わらず殆ど単一の機関のみからの報道によるもので、その他からの独立な裏付けが取れないような話については、単なる噂、風説の類と捉えていたわけです。ですので、捏造だった事が判明したところで、ああやっぱりね、とむしろ納得するだけでした。初めから信頼していないのですから、真実虚偽だった事が判明したところで、何ら損害が生じる筈もなかったのです。

そもそもの話、新聞を含め、報道機関は本来的に情報源そのものではなく、情報の仲介者に過ぎません。何をどのように報じるか、その選択における判断、決定において恣意が介在する事は避けられませんが、報道される情報自体は事実である事、それは欠くべからざる前提と言えます。消費者は、その事実を知る為に対価を支払っているのであって、本件のような、故意による虚偽や作り話など論外であり、それが個人や組織の行動や心理に影響して現実の被害に至れば、相応の賠償を求める権利も当然に発生します。従って、それ自体は必ずしも不法行為ではなくとも、不法性を帯びやすい行為であって、報道機関としては自殺行為に等しいものとも言えるでしょう。合理的な判断に従えば、およそ行い得ないものと思われるところです。

とはいえ、報道機関はそれぞれ独立した民間の営利団体ですから、元より一様に律せられているわけではなく、組織毎に異なる論理に従ってその利益を追求して活動する以上、今回のような組織的な捏造も、単に成果を焦った部門や社員によるでっち上げも起こりうるわけです。法による厳格な規制も無く、逆に表現の自由として憲法によって保護されているとあっては尚更でしょう。

むしろ、大手の中でも雑誌やスポーツ紙等では、ミスリードもデマも、もはやその欠くべからざる主要素と位置づけられている感もある程で、概ねにせよ事実の報道をするものとして信頼され得る機関の方が特殊と言うべきなのでしょう。そして、その代表たる大手新聞社ですら、本件のような捏造を公然と行ってしまう、それが現実だという事です。その意味で、信頼のおける報道機関は日本には存在しない、とも言えてしまうのでしょう。残念ながら。建前では公共、公正を謳い掲げながら、その実は各々の組織や個々人の利益のために活動し、時には嘘も平然と流す、欺瞞に満ちた事業者達がその営みを続けている、ただそれだけの事です。

しかるに、この種のおよそ不可避的に発生する虚偽、捏造、ミスリード等について、受け手側としてはどう捉え、対処すべきなのか、それが問題なわけです。私個人のスタンスは既に述べました。自己の責任において検証し、疑わしきは全て虚偽の可能性ありとして無視する、というものです。

社会的にはどうでしょうか。元より、そういった虚偽の報道は全て容認するわけにもいかず、かと言って一々批難してもキリがありません。「朝日も終わりだ」等としてその終焉と見做す向きも多数ありますが、それは報道機関、ひいては事実の伝達それ自体が全て終わりと言っているに等しく、無意味に思われるわけです。そうではなく、現実の問題として具体的な対応方法、方針を持たなければなりません。そこでただ切り捨てるのではなく、積極的に対処しようとするなら、その対象を区別するための線引きが必要です。それは可能でしょうか。

本件の朝日の行為は論外です。では、読売、産経、毎日、日経、地方紙、雑誌、テレビ各局は?虚偽の報道自体は至る所であまりにありふれた話です。従って、その有無で区別する事は出来ません。では、質による区別は可能か?しかし、この種の情報自体の質を定量的に測る客観的な基準、方法は存在しませんから、それも困難でしょう。影響の大きさでは?それは多分に受け手の多さによるでしょうから、結局のところ単に大手の機関を罰するだけになるでしょう。

要するに、妥当な方法は今のところ存在しないのです。積極的な対処が困難なのであれば、いっそ機械的に判断し一律に無視する、というのはそれなりに現実的な対応だと言えないでしょうか。社会経済的にも合理性があると思うのです。

現実問題、捏造や虚偽が行われたからと言って、その事から直ちに刑罰的な報いを受けさせる、そのようなシステムを実現する事は、およそ不可能にも思われます。それより、その帰結としての影響が、詐欺なり名誉毀損なり、個別具体的な損害を生じせしめた時に、それぞれが法に従って罰せられればそれでよいし、またそうすべきであって、その評価、判断が各個人の主観のみによらざるを得ず、従って客観的評価が不可能なために適法な措置が困難な、報道の内容それ自体に対する罰則等は課されるべきではないでしょう。実際、現在の日本の法はそのように作られている事からも、その妥当性は支持され得るでしょう。

そして、個別具体的な被害を受けない大多数においては、単に無視すればそれでいいのではないでしょうか。一々批難追求をしていてはキリがないし、無駄な労力になるリスクも多分にあるわけです。対して、何処からどのように情報を受け取り、それをどう捉えるか、それは元より各個人の自由です。疑わしいもの、信頼のおけないもの、虚偽を流した事のあるもの、それらを選別にかけ、除外していけば、虚偽の報道を受け取る割合も縮小し、いずれ均衡するものと期待されるでしょう。

とりあえず、朝日は系列含めまるごと除外し、関連する他社の報道もまとめて無視する、そのあたりが適切な対応ではないでしょうか。それで何ら問題もないのです。報道各社以外には。