政治家が死んだ。
あの人か、ご愁傷さま、といつものように軽く冥福を祈る。
ただ名前を知っているだけの、知己でもない赤の他人だ。政治家、一世を風靡した芸能人、業界の有名経営者、読んだことのある小説の作者、いつか見たことのあるVtuber、講義を受けた事があるだけの教授、言葉を交わした事もないかつての同級生。どれも何一つ変わらない。所詮は他人事だ。
人は死ぬ。毎日、およそ数十万人が地球上で死んでいる。名を知っている程度の人に限っても、淡々と絶え間なく次々に死んでいく。いちいち気に留めてもいられない。そこに倫理や道徳の類が割って入る余地もない。時間は有限であり、日々の営みを放り出し、ただ死者を悼むために時間を割くような贅沢は、お互いに親しい知己であったような相手でもなければ行えない。
当たり前の話だ。そうしなければ、四六時中死者を悼んでいなくてはならなくなるだろう。葬儀のために大半を費やす人生など悪い冗談だ。
だというのに。たまに出るのだ。延々と、声高に、わざと人の耳に目に入るように、追悼を叫ぶ輩が。あんな素晴らしい人が亡くなったのに、あなたは悼まないの?と言わんばかりに。
やめろ。うるさい。私には関係ない。迷惑だ。
もう終わった話の筈なのに、これみよがしで芝居じみた大げさな嘆きを聞く度に、不快な感情が喚起され続ける。不愉快極まりない。
死んだ政治家に罪はない。だが、この不快感の一因には違いない。彼に対しても負の感情が芽生えていく。
分かっているのだ。彼の死を悼む人が多いほど、その葬送が大規模になるほど、長期に渡るほど、彼の所属していた政党、その意思を継ぐと称する有象無象、またその支持者等が、感情に流される有権者の同情による支持という政治的な利を得る事、まさにそのために彼らが中心となってこの鬱陶しい声を拡大しようとしている事は。侮蔑を禁じ得ない。だがそのように感情を持つ事自体煩わしい。
目を塞ぐ。耳を塞ぐ。見えていても、聞こえていても、そこにないものとして。そうする以外にこの不快感を抑える術がない。後は時間が解決してくれるだろう。
そしてまた、今日も人は死んでいく。いつものように。私を煩わせずに。
※死亡者数修正 数千万/日 -> 数十万/日