高市早苗氏が公文書記録を捏造と主張している件ですが、見るに耐えませんね。
詳細は今更繰り返すまでもありませんが、大まかにまとめると次の通り。同氏が総務相であった際の、省内で特定のテレビ放送局に関係して放送に対する公権力の中立性に抵触する氏の発言、有り体に言えば暴言と言うべき類のものが記録された文書が公表され、国会の質疑の中で追求を受けた際にその文書自体が捏造だと断言し、後にその文書が総務省により行政文書、すなわち公文書である事が確認された後も、内容が不正確だ、等と言い方を変えつつもなお捏造と主張し続けている、というものです。
内容自体は、周知の通り故安倍氏と同じく右翼の中でも最強硬派の代表として知られる高市氏の過去の発言を踏まえれば、まあそれ位の事は普通に言うだろう、というようなもので、逆に言えば今更それが判明したところで驚くにはあたらない程度のものです。おそらく当初から氏が本文書の記載を事実と認めていたとして、言い過ぎだったと陳謝撤回すればそれで済んだでしょう。実際に圧力がかかっていなければ、ですけれども。
が、公文書と判明する前に、もし文書が本物であれば議員辞職する旨明言してしまい、その辞職を回避する、すなわち保身のために、文書自体が捏造であったとの主張を撤回出来なくなってしまったのですね。
状況は以上の通り。次に、氏の主張の真偽について検討してみましょう。
まず、氏の主張するところの本文書(及びその記載事項)が捏造である旨については、その主張を裏付ける客観的な根拠は何もなく、従って考慮に値しないと言わざるを得ません。氏の主張も、"そんなレクを受けた筈はない"等、根拠は自身の記憶のみ、しかも"筈だ"とか曖昧な部分すら残っています。証拠性というか、第三者に対する説得力は一切ないわけです。明らかに覚えているだろう事柄についてすら都合よく覚えていないと主張する政治家が記憶にないと言ったところで、何の意味もありません。
一方、文書の内容、すなわち氏の発言等については、捏造を疑わせるような点は見当たらないわけですね。仮に捏造であるとしてみましょう。公文書である事ははっきりしているのだから、その作成者は官僚、しかも大臣とのやり取りに同席する程度の高官です。文書の正確性は間違いなく高いでしょうし、その重要性からして省内の多数の部署間で共有もされ、多数の目に晒されていたでしょう。そのような文書の、それも最も重要な部分である大臣の発言、しかも行政としては何ら必要性も必然性もない類のものを、総務省の高官がわざわざ創作捏造してねじ込んだ、という事になります。有り得ません。
氏の修正された主張であるところの、文書の不正確性についても、あったとしてせいぜい軽微な表記ミス程度でしょうし、発言の主旨に影響を与えるほどのものとは到底考えられません。
結局のところ、氏の主張には根拠がなく、一方の文書の真性については根拠は十分でありかつ否定する根拠もない。高市氏は本件の争点に関してはもう詰んでいると言わざるを得ません。にも関わらずなおも自身の主張を通そうとする氏の試みは無謀という他ないでしょう。
意図的なのか、それとも忘れているのかは不明ですが、解せません。積極的に過激な主張を行う事で知られ、従ってこの種の舌禍への対処については慣れている筈の高市氏が、何故こんな無謀な振る舞いに及んでしまったのでしょうか。
多分に、高市氏は強力な後ろ盾だった安倍氏がいた頃のやり方を忘れられないのではないでしょうか。本件文書は、故安倍首相による官僚の統制が強力に作用していた時期のものです。おそらく、安倍首相が存命であれば、その統制によって文書自体が外部に出る事もなかったでしょうし、外部に出たとしても、安倍氏の威光により総務省の側が公文書と認める事もなく、捏造との主張が通っていたのかもしれません。森友学園関係の一連の事件のように。
しかし安倍氏はもういないのです。当然、その威を借りる事は出来ず、しかしその代わりになる後ろ盾を得る事も出来ず。にも関わらず、虎がいた頃の生き方を変えられなかったために、容赦なく外敵に淘汰されようとしている、孤独で愚かな狐。今の氏は、そういうものなのかもしれません。