ゴシップ。うわさ話。縁もゆかりもない他人についての、根も葉もない真偽不明の情報を、興味本位であげつらうもの。
ニュース情報の内にあっては、報道の対象となる公共の利害に関する事実と対極に位置付けられる、その大半が流布の正当性を欠き、それに伴ってプライバシーはじめ各種の人権侵害についてしばしば違法性を帯び、あるいは単なる虚偽・風説の流布として社会に害悪をもたらすもの。
昨今、そういう性質のニュース記事が増えているように思われます。それも、メディアの種類やニュースのジャンル等の区分を問わず、一般的に。
その種のニュースは、以前はその対象は芸能人を中心として、著名人の私生活に関する情報にほぼ限定されていました。マスメディアしか発信元がなかったのですから当然です。
しかし、近年はSNSを中心にYoutube等の動画サイトから各種のネット掲示板まで、多種多様な非マスメディアがニュースの伝達を担う場として隆盛し、マスメディアのシェアは相対的に低下を続けています。情報の種類・性質にもよりますが、多くの場合、非マスメディアで流れる二次以降の情報の情報流通に占める割合は圧倒的多数になっていさえします。
元々、ネット上の非マスメディアで流れる情報は、発信者と受信者がいずれも一次的な情報に接する事のない部外者であるために、その殆どが発信の時点で二次以降の伝聞であり、発信者の勝手な思い込み等の主観的な面も強く真偽の怪しい、すなわちゴシップ性が色濃いものです。
非マスメディア経由の情報が占める比率が増えるに従い、ゴシップ性の高いものの比率もそれだけ上がる。それは必然の結果です。しかし、それだけではない。
近年はマスメディアも含め、ニュースの流通プラットフォーム自体がネットへ移行しています。ネットがマスメディアと決定的に異なる点は、言うまでもなく、受け手側の各個人が個々のニュース(もしくはその発信元)を能動的に取捨選択する、という点です。
世に流れる情報はあまりに膨大であり、人間がその全てを見ることはおよそ不可能である以上、各個人は、基本的に自分の見たい記事しか見ません。見ることが出来ません。従って、ネット上のおよそ全てのニュースは、否応なく受け手の嗜好という容赦のない選別に晒される定めにあります。
どんな情報も、伝わらなければ無意味です。受け手に届かなければニュース事業は成立しません。受け手の興味を惹かなければそもそも見てもらえない以上、そこで最も重要なのは、記事の信頼性でも公共性の高さでもスクープ性でもなく、大量のニュースの中から受け手に選んでもらえるかどうかであり、その興味を惹けるかどうか、その一点に尽きる、という事になる。
興味を惹くためにはどうするか?
様々な試みが行われて来ましたし、今以て日夜絶えず行われてもいます。大手の新聞社等は、まず従来の紙媒体と同様に直接の閲覧料を徴収すべく独自の会員制サイトを作りユーザーを囲い込もうとしましたが、極めて限定的な効果に留まり、紙媒体の代替にはなりませんでした。次に大手のポータルと契約を結んで優先的な扱いを受けられる地位を手に入れ、こちらは概ね成功と評価出来るだけの閲覧者を得ているように思われます。しかし、ポータルの側が優越的な立場にある事から、そこで得られる広告収入等は十分なものとは必ずしも言えないようです。
それらの、情報流通の仕組み上の工夫による対処には、元より限界がありました。であれば、個々の情報の内容とその出し方を改良するより他に手立てはない、とそう考える業者が出たのも自然な流れです。興味を惹くにはどうするか、惹ける内容とはどういうものか、それらの検討がなされた結果、元々ゴシップをよく扱っていた週刊誌系を中心に少なからぬメディア事業者がゴシップに流れました。
今では、大規模な災害や政治的なイベント等の報道すべき題材が溢れている一部の時期を除き、何ら公益に関係しない、従って本来はニュースとも言えないような、取るに足りない単なる噂話や、現実性すらあやふやな予想・憶測、事実ですらない意義不明の一個人の感想や意見など、ゴシップ性の極めて強い情報がニュースとして当たり前に流されるようになっています。
その最たるものとして、スポーツ選手関連の報道が挙げられます。プロスポーツは興行であり、一事業者の私的事業に属するものです。その一環であるところの選手の情報は、本質的に芸能人の活動や生活の情報等と同種の、公共の利害とは無関係な、まさしくゴシップの代表と言えるものです。
にも関わらず、昨今では日々のトップニュースで政治・経済・社会の各種の公益に関する報道を差し置いて、いの一番に取り上げられるのです。それに辟易する人も多数発生し、知りたくもないのに強制的に情報に晒される事をハラスメントとして非難する人まで少なからず生まれている始末です。ネットニュースは勿論、従来型のマスメディアですら例外ではありません。
これは、ニュースの重要度・優先度が、受け手側の興味を惹く度合いによって決定付けられている事の象徴と言えるでしょう。つまるところ、今の社会にあっては、ニュースの本質とは話題性なのであって、内容は二の次なのです。換言すれば、内容は何でもいいのです。それが嘘であろうと。伝わる事こそが最も重要な点になっているのです。
まさしく本末転倒です。
見出しにも、"たった一つの"、"本当の"、"驚きの"、 "真実"、"ウソ"、などなど、胡散臭い誇張的な表現を用いるものが増えました。ネット普及以前は、一部の、信憑性が極めて低いとされるゴシップ系の週刊誌等でしか見られなかったようなそれらが、ニュースサイトでは報道記事と区別される事なく、同列のものとして並べて表示されています。そして、アクセス数の上位にはむしろ通常の報道記事よりゴシップ系の方が遥かに多くランクインするのです。
アクセス数の多さ少なさは、そのまま収益の高さ低さに直結します。でっち上げの記事より、一次情報に近く、裏取り等も行う報道機関等の記事の方が遥かにコストは高い筈ですが、受け手の興味を惹かなければ、その胡散臭い記事よりも劣った収益しか得られません。
結果、マスメディア等の側も、収益を得るために、ゴシップ記事に負けない程に受け手の興味を惹くような外観を個々の記事に備えさせる必要に迫られる。かくしてマスメディアの発するニュースも、ゴシップのような外観を呈するに至るのです。
その上、受け手の獲得競争は、ニュースの発信から撤退しない限り、際限なく続きます。最初は外観の調整から始まったそれは、あっという間にエスカレートするでしょう。何せ競争相手は殆ど無限にいるのです。総量も膨大。溢れるゴシップに埋もれないよう対抗するには、こちらも量が必要。以前のように一つの記事に時間をかけてもいられない。となれば、情報の質は犠牲にせざるを得ない。
そして、マスメディアの発する情報にも大量のゴシップが入り込むようになります。
背に腹は代えられない。以前であれば、報道機関の倫理等で歯止めがかけられていたそれも、事業の存続のためには仕方ない、と正当化されるでしょう。明らかな犯罪以外は何でもやる。やらなければ生き残れないのだから。製造販売業等のその他の事業者と同じです。メディアの営む報道事業の公共性がいかに高かろうと、あくまで私の事業である以上、競争に晒された時点でそれは殆ど必然の成り行きなのです。
結果、溢れ返るゴシップ記事。ゴシップでない記事も、見出し等はゴシップと区別が困難なものが当たり前に流れ、もはやニュースサイトは総ゴシップ化してしまう。虚偽と事実が渾然として区別も困難になり、何を信じていいのかもわからなくなる。
それは、事実を伝える事で公益に資する、という本来のニュースの社会的機能が失われるに等しいのではないか。すなわち、ニュースの死と殆ど同義なのではないのか。
まだ完全にそうなったわけではないようには見える。しかし、既にその時は目前に迫っているのではないのか。あるいは実質的には既に一線を越えてしまった後なのではないか。昨今のニュースの有り様を見ていると、そのような事を考えてしまうのです。