今回はデマの話です。長いです。多分今まで書いた記事の中で最長。
要点だけ言えば、"陰謀論的なデマが盛んに流れるようになってしまった昨今、悪影響も甚だしくて遺憾な限りだけどどうしようもない、残念"というだけの話です。興味を持つ人なんていないでしょうけど、それでもいいという奇特な方はどうぞ。では。
Demagogy。主に政治的な目的の下、意図的に流布される虚偽情報の事です。単なる流言飛語を指す事も珍しくありませんが、要するに嘘です。
嘘なんて普通はすぐにそうとわかるし、真に受けて行動すれば馬鹿を見る事になる。周囲にも馬鹿なやつだと軽蔑される。相手にもするべきではない。
世間一般的に、そういうものだと思われて来た、筈です。殆ど誰もが、情報として、あるいは実体験を通じて、多かれ少なかれ理解しているでしょう。嘘をつくのは悪い事だし、嘘に騙されるのも良くない事だと。デマなんて無視されて、あるいはそれを流した者もろとも軽蔑されて終わりだと。
しかし、近頃では必ずしもそうではないようなのです。
近年、やけにデマが流れる事が増えたと思うんです。特に陰謀論的なものが。いえ、増えたという表現は控えめにすぎるかもしれません。何か不祥事や事件が起きると、ほぼ決まってどこそこの組織の陰謀だとか、情報操作だとか、何の根拠もなく無関係な第三者を非難し、容疑者らを擁護し、被害者や告発者を貶めようとする言説が飛び交う様を目にするようになりました。公然と。
それどころか、別段事件とも言えない、単なる日常的な利害関係の衝突や意見の相違でしかないような些細な争いにも、外国や官僚、宗教団体、果ては架空の勢力やらまで持ち出して、その陰謀だと断定さえする言説が公然と流れる始末です。何らの具体的な証拠も根拠もなく。もちろん合理性もない。
そして、それを真に受け、真実だと信じ込み、その扇動に加わる人が多数派になる、等という極めて遺憾な事態さえ起こっているというのです。
リテラシー教育の敗北とでも言えばいいんでしょうか。そういう面はあるでしょう。しかしそれだけで済むような、そんな単純な話とも思えません。
デマも情報、流す人、流した人が現実にいます。彼ら彼女らが、上記のようなデマを流す理由は容易に想像できます。金銭を主とする、その利益のためです。デマが流れるのは決まってネット上の情報サイトです。その多くは広告収入がほぼ唯一の収益源で、そこに記事等を提供するライター等も含め、その提供する情報に多数の人の注目を集める事が事業の主たる目的になっています。すなわち、多数の人の興味を惹く必要があるわけで、そのためにデマを利用している、それだけの事なのだろうと。
それは事業なのですから、瞬間的な興味を惹起するだけでは足りず、ある程度の継続性がなくてはなりません。そのためには、嘘だと見破られ難く、かつ嘘だとわかっていても興味が惹かれ、また信じたくなるような内容が適切であり、その条件を満たすものとして解となったのが陰謀論的なデマ、という事なのでしょう。
では、その陰謀論的なデマがなぜこのように社会現象と言えるだろうまでに広まるのか。そこを理解するには、その性質を明らかにする他はありません。
デマはでっちあげであり、嘘です。その真偽を明らかにするには、一般にそれと対立するところの真実に相当する命題との比較を必要とします。無論、詳細に比較するまでもなく一目瞭然な事も少なくありませんが、情報によっては、各種の機密やプライバシーに関するもの等、その性質上秘匿性が高く、真偽の検証が困難なものもあります。
陰謀論の主たる対象はまさにそのような秘密に類する情報です。本来、不特定多数は知り得ないもの。秘匿情報。そのような話は元々の性質として広く流布される必然性が低い筈です。何せ秘密なのですから。
逆に言えば、秘匿性が高いはずの情報が広く流布されるという事は、その時点で虚偽の可能性が非常に高いと言えるのです。しかし、実際にはデマとして成立しています。これは、まさにその秘匿性によるものだと思われます。その理由は以下の通りです。
デマが成立するために必須の条件として、その非真実性が(一目瞭然レベルで)証明されない、という点がある事に異論はないでしょう。一般人が前提情報なしに一見して嘘と断定出来ない、という事です。そうでなければ、そもそも殆ど真に受ける人が生じず、流布されないでしょう。その意味で必須の性質と言うべきものです。
秘匿性の高い(筈の)情報は、この点に合致します。
この種の秘匿情報に関するデマは、およそ完全なでっちあげにならざるを得ません。通常デマを流す側は実際に情報に接する当事者ではない以上、真実を知っている筈がないのですから当然です。しかし、完全な嘘であっても、その判定に必要な、対立命題であるところの真実自体が秘匿されているが故に、その虚偽性が明白には否定され難いのです。
さらに、真実の流布による否定を考慮する必要がなく、その内容全てを創作できる、つまりでっちあげられるという事は、デマの内容を流布者が何らの制約も受けず自由に調整出来るという事であり、すなわち内部的な矛盾をあらかじめ解消出来るという事でもあります。
それによりデマ自体の内容のみによるその真偽の判定が困難あるいは不可能になる。すなわち、その真偽の判別には、デマ以外の情報による整合性等の検証が必要になるわけです。それには多かれ少なかれ一般教養的な知識が必要になるし、手間もかかる。その種の知的活動に慣れた人なら息を吸うようにこなせるそれらも、一般の人にとってそのハードルは決して低くはない事もあるでしょう。こうして、デマはその完全な虚偽性の隠蔽に成功するのです。検証さえされなければそれらしく聞こえる話を、真実だと錯覚してくれる、騙されてくれる人が大勢いるのですね。
というわけで、秘匿情報を称するデマの内容は、必然的にでっちあげ、すなわち架空のものになるわけですが、無論架空のものなら何でもいいわけではありません。例えば神や宇宙人など、現実味が全く無いものを持ち出しても、流石にそれを広く信じてもらえる可能性は低いでしょう。(ゼロではないにせよ。)
ここに陰謀論が嵌まり込みます。必ずしも友好的とは言えない外国、上位官僚のような権力を持った組織、独自の価値観を持つ宗教団体、主義主張傾向の類似する個人の集団など、その陰謀を実行する動機と能力を持っていると設定し得る、しかし実際には存在せず、それでいて即座に否定されづらい程度にその確認が困難な、すなわち秘匿情報と同じ性質を持つような主体。デマの内容と矛盾しないように選ばれたそれは、デマの主題と調和し、内部的な整合性をもたらし、それがデマの自己完結的な真実味を強めるのです。
それらの架空の勢力の意図は、理論的には何でも良い筈ですが、ほとんどの場合は社会的な悪事が設定され、必然的に勢力の性質は社会悪的な属性を帯びる事になります。理由は色々考えられますが、端的に言えばこそこそと公の耳目から隠れて行われる活動である以上、その方が動機として自然で、人々に受け入れられやすいという事なのでしょう。後ろめたくないのなら公然と活動している筈だ、秘密にしているのは悪事だからだ、という理屈なんでしょうね。(空論と評する他ないような稚拙な理屈ですが。)
知られざる架空の勢力が企む架空の悪事。あらゆる面で嘘しかないけれど、嘘同士が整合している、ただそれだけの理由で真実味が出る。その意味で、陰謀論ほどデマの対象として都合がいいものもないのでしょう。これを隠された真実、等と称して流せば、そのように受け取ってもらえるというわけです。
さて。かくしてデマは生み出されて広まり、流布者は多数の信者を獲得して、サイトは広告収入で潤い、承認欲求は満たされ、愉快犯は流される人々を見て笑い、各々の経済的、政治的な目的も達成されるだろうわけですが。それらが不当な利益であるという点は別にしても、それら利益を遥かに超える損害、悪影響も生じます。
元より、デマを信じる事自体は個々人の内心に留まる限りは各人の自由です。ですが、実際には内心に留まらず、しばしば行動となって周囲・社会に直接的な影響を及ぼします。何せデマの多くが陰謀すなわち悪事に関するものなのですから、それに対する反応は反発的になり、必然的に攻撃性をも帯びやすくなります。正義の戦士になるとかいうやつですね。そしてその自己正当化された正義感に基づく行動は、誹謗中傷や謂れのない非難、諸々の妨害行為、時には暴力等という形を取り、直接間接に無関係な人が不当な被害を被ってしまうわけです。勝手に悪の組織認定された向きも含めて。
そのような事態は当然ながら許される事ではありません。多くの場合は刑法上の犯罪にも該当します。しかしながら、デマにより影響を受ける人はあまりに膨大であり、当然被害者も多数かつその実害の態様も多岐に渡り、事態の変化の速度も極めて速い事もあって、司法上の対処は極めて困難です。そのため被害を被る側にはそれを予防ないし防止する術がなく、少なくともそのデマが流布している間は、その被害を甘受せざるを得ない状況が続く事になる、というのが現状です。事後の対処にしても、かろうじて直接的な被害のあった場合に、その内の少数につき発信元の開示からの民事訴訟等の手続等を取り得る程度ですね。殆どの場合、損害賠償の請求すら困難です。
デマに流されている人にはその自覚はなく、根拠も整合性もない陰謀論を信じ込んでしまい、陰謀を企み不正を行う敵勢力と戦っているつもりなのであって、それを否定する言説はそれがどのようなものであれ陰謀の一環と捉えて拒絶してしまう状態なのです。要するに聞く耳を持たない。敵と看做されたが最後なのですから、被害者側からはどうしようもありません。
それどころか、デマを信じる彼ら彼女らは、内容の如何によらず、その事について批判を受けるとそれに反発します。その際、自分達は根拠もなくデマを信じ込んでいるにも関わらず、しばしば批判の根拠となる具体的な証拠の提示を求め、その一方で全く証拠性も信頼性もない動画等を根拠と称して自己の正当性を主張します。その動画の情報はなぜ信用出来るのか、少しでも自身の認識の実情とその根拠を省みて検証すればそこに何ら証拠性がない事は明らかなのにも関わらずです。
しかも、彼ら彼女らは、相互にデマを補強し合いさえします。私だけじゃない、仲間は大勢いるじゃないか、というわけです。そのような状態の彼ら彼女らに、客観性というものは存在しません。説得力もありません。自分の、自分たちの信じたい事、信じている事が真実であり、それに反するものは全て間違いなのだと。程度の差こそあれ、そのような状態になっています。周囲に同意や共感を求め、敵を排除し、団結を強める事もある、という事です。
ここに至って、デマを一種のカルト、すなわち宗教と同一視する事が正当化し得るわけです。宗教の一般的な概念になぞらえれば、デマは教義、ないしは神託であり、それを流した者は伝道者であり、そこに記された悪事を行う者は忌むべき悪魔であり敵、自身は神託に導かれた敬虔なる下僕。そのように表現できるでしょうか。
しかし、この宗教には、決定的に欠けているものがあります。神です。一体彼ら彼女らにとっての神は誰で、一体何処にいるのでしょうか?
流布者ではないでしょう。流布者はあくまでデマすなわち教えを伝える役割を担っているに過ぎません。陰謀論?それも違います。彼ら彼女ら自身は陰謀論自体を認識すらしていません。では自分たち自身が神か?そうだとすればその精神は破綻していると言わざるを得ませんが、あるいはそうなのかもしれません。社会的な正義という抽象的な概念を神格化し、自らをそれに与する者ないし体現者としてその行いを正当化する。そういう見方も可能かもしれません。
眼前に晒された悪に対し、自ら正義の鉄槌を下すもの。その行いは純然たる私刑であり、法治国家にあっては違法行為に他なりません。それを公然と行い得る権限を持つのは法の授権を受けた司法機関のみであり、私人に過ぎない一般人にその権利はない。にも関わらず私刑に及ぶのであれば、そこには法を超える根拠が必要になります。
彼ら彼女らは、無意識の内に、自らを、法の上位にあるもの、すなわち神に等しいものと位置付け、正当化しているのではないでしょうか。自分が正義、すなわち法であり、個別の事件につきその正当性を担保するのがデマだというわけです。無論、そのような文字通りの狂人染みた思想を持っているというわけではないでしょうが、多少なりと類似した性質の論理に基づいて行動しているのではないかと思われるのです。
かくして、人はデマに流される。デマがその目的を達した後も、一度発生したその流れは止まらず、人々は流され続ける。一つのデマが終わろうが終わるまいが、毎日のようにデマは発生し続け、その度にまた流される。時にそれは濁流となって無関係な、何の罪もない人々を飲み込んで傷つけ、溺死させ、その生活を破壊する。流された者は戻らず、破壊されたものが修復される事も、償われる事もない。時に流れは合流してその勢力を拡大し、土地を汚染し、あるいはそこに住む人もろとも水没させる。残されるものは何もない。
常識も倫理も論理さえもデマに飲み込まれる、そんな社会でいいのでしょうか。いいわけはない。だけれど、止められない。デマの沼、いや濁流に飲み込まれゆく社会を前に、傍観者として無力感と絶望感を抱く日々なのです。