8/28/2020

[note] 終わりと始まり、空虚なる一致

ようやく、と言うべきでしょうか。長きに渡った第2次安倍政権が終わります。

その開始当初から、失政を繰り返し、権力の濫用も絶えず、その責任も一切認めないという、無責任そのものを体現してきた同政権の終わりは、その応報によるものではなく、第1次の際と同じく持病による執務能力の不全による、至極あっけないものでした。貯まりに貯まったそのツケは、後継の政権が払う事になります。

とりわけ内政においては、いわずと知れたアベノミクス、すなわち公的資金から個人の資産まで、あらゆる資金を金融市場に流し込み、株や商品の価格を釣り上げ続けるという、あまりにも深刻な副作用に満ちた政策をその副作用が顕在化してなお止める事が出来ず、泥沼に嵌まり込むが如く続け、もはや日銀をはじめあらゆる金融機関が身動きも取れない状態に陥ってしまいました。

加えて、2020年に入ってからのコロナウィルスの深刻な流行、それへの対処に伴う経済活動の大幅な抑制によって、少なくとも今年度のGDP並びに個人・法人の所得は壊滅的な縮減を余儀なくされており、それらへの対処のために相当部分が無駄に費やされたと言ってよいであろう公金の額も過去に類を見ない規模に及んでおり、今年度の財政は既に破綻した水準にあるものと言えます。

無論、大小様々な事業の破綻、個人の失業も急増しており、それらへの救済を求める要求は減るどころか高まり続けています。しかし、長年財政支出への手当の半分以上を新規国債の発行に頼ってきた国家財政に、それらに十全に応える余力など残っていよう筈もありません。

誰が継ぐにせよ、次期政権は、この状況への対処を迫られる事になるわけです。どう見ても火中の栗どころではなく、地獄の門へ自ら踏み込むようなものだろうわけですが、それでも誰かが継ぐのでしょう。それは権力欲によるものかもしれませんし、この下手をしなくても経済が崩壊しかねない状況を回避ないしは軟着陸させる志を持って臨む向きも、無いではないのかも知れません。

とはいえ、現実的に最もありそうなのは、ここ数年の政権が行ってきた事を続ける、すなわち状況の先送りをしようとする事でしょうか。実際のところ、それ以外の、積極的に解決するような術があるようには思えませんし、しばらくはあまり変わらない状況が続く可能性が高そうです。あるいは、抜本的な修正、すなわち量的緩和の終了に乗り出す可能性も無いわけではないのでしょうけれども。

いずれにせよ、ただ、思うのです。大した違いはないだろうと。次の政権を誰が担い、何をしようとも、多分に破滅が来るのが早くなるか遅くなるか、またその時の落差が多少大きいか小さいか、の違いでしかなく、結局のところ行き着く先はさほど変わらないのだろう、と。

それは、第2次安倍政権の初期、日銀の量的緩和が始まった頃に思った事と全く同じだったわけで。過ぎ去った年月と、その間に人々が抱いた期待と失望、費やされた資金と労力、それらが殆ど無駄だったのではないかと、諦めとともに、虚しさを感じずにはいられないのです。