5/10/2016

[law] 俄に注目を集め出したLGBT問題に纏わり付く違和感

俄に社会問題として取り上げられるようになった性的少数者について少し思う所を。

社会から疎外されるsexual minorityの問題自体は別に今に始まった話では全く無く、それこそ何十年も前から散々議論の的になって来たものです。国内でも様々なケースが司法も巻き込んで争われ、様々な権利が法的にも認められるようになり、完全に解決する見込みは得られていないながらも環境の改善が着実に図られてきているところです。それが、何故今になって突然、何らの対策もされず放置されているかのように世論を殊更煽るような形で特別に問題視されるのか、今ひとつ腑に落ちないわけです。

その理由は、と疑問を抱いたところで、一個人が考えても分かる筈もなかろうけれども、色々と仮説を立てる気にもなろうというものではないかと。

おそらく最大かつ直接的な要因の一つは、米North Calorina州で3月に成立したTransgenderのトイレ利用を禁止する州法について、DOJが、連邦法の規定する性差別の禁止に違反している、としてクレームを付けた事でしょう。これを受けた米国内での世論の注目の高まり、それが日本国内に波及したものと考える事は不自然でしょうか。もしそうだとすれば、国内での注目は、ある種の便乗に過ぎないものとも言えるわけで、いささか恣意的な印象を否めません。

そうではなく、純粋に日本国内の問題として、社会的に疎外されているマイノリティの保護・救済が必要であり、その中で特に社会的な対応が緊急に必要になった、という事なのでしょうか。しかし、国内での状況を鑑みれば、本件類似の社会・人権問題としてこれまで特に重点的に取り扱われて来た問題、すなわち身体・精神障害者、外国人殊に少数人種や不法滞在者、宗教的被差別、部落等の地域性に基づく差別等、より深刻かつ大規模な問題は多数存在し、その種の問題意識と政策の主たる対象となって来たところです。これらと比較すれば、個々人の内心の問題に留まり、本来的に社会的な問題とは認識されない傾向の強い性的少数者を、現状のように特別に取り上げ、社会政策上の救済の必要性が強く主張するにはやはりそれなりの特別かつ具体的な理由が必要だと思われるところ、現在各所で流れている様々な報道、論評を見る限り、そのような事情は見受けられません。そこにやはり強く違和感を感じずにはいられないのです。

もっとも、先に挙げたマイノリティの例については、これまで優先的に対処が成されて来たところでありますから、解決したわけではないけれども政策も含め概ねやれる事はやって、もはや劇的な改善は見込めない所まで行き着いた結果、これまであまり組織立って救済されて来なかった比較的小さな問題にも取り組む余裕が出て来た、とかそういう事なのかもしれません。しかしそうだとしても、某不満足な御仁がやらかしたタイミングでというのにも如何にもな因果関係を連想させられてしまうわけで、余裕が出たというよりは、それらの問題に取り組んで来た活動家らが目先を変えただけなのかもしれない、等と邪推も浮かぶわけです。もっとも、御仁は関係なく、手持ち無沙汰になったり、単に飽きて目新しい問題に取り組み出したりしただけな可能性もあると思いますけれど。どうなんでしょうね?

ともあれ。考えても仕方のない理由についてはこの辺にしておきましょう。

で、話を戻して、今回の件についてですけれども。性的少数者を代表する形で取り上げられているところのLGBTの内、LGBまで、すなわちLesbian,Gay,Bisexualについてはいずれも元々広く認知され、一般に個人の性的嗜好の一つとして受け入れられており、結局のところその性的特性によって特に差別を受けているわけでもありません。唯一の例外は、外形上元の性別のままであり、社会生活上で周囲との齟齬が常に顕在化するT、すなわちTransgenderのみです。米国で問題になっているのもやはりこの場合だけなわけですが、何故か日本国内ではLGBTは全て同質のものであり、等しく救済が必要なものとして扱われているようです。この事が便乗感というか、問題提起自体に対する不合理な印象をより強くしているようにも思うのですが、それはさておき。

Transgenderは、周知の通り生物学的(遺伝子的)な性別と精神的(主観的)な性別が不一致を起こしている人もしくはその精神状態の事を指すわけです。手術等の身体的な操作の有無は問いません。人格は一義的に精神と同一視し得るものである以上、彼ら彼女らが、主観的な性別で生きる権利、つまり社会的に生物的性別と異なる性別として認容される権利が、人格権の一つとして保護されるべきものである事には、個々人の好悪はともかくとして、法的な面から言えばおよそ異論のない、というより異論を立てる事は困難なところでしょう。

ただ、その保護を実際に実現するに際して、生物学的には別性であり、客観的にTransgenderである事が判別不能であるが故の社会上の看過し難い困難が発生するのであって、それを法によって如何に解消するか、あるいは調整するのかが問題になっているわけです。

具体的な例で言えば、トイレや更衣室等の、個々人の性的人権の保護のため性的に厳格な隔離が必要な場に、通常の利用者が客観的に見て別性と判断するだろう人間の利用を許容する事の可否と、仮にそれを可とするならばどのようなシステムによって実現するのか、という方法論の問題との二重の問題が存在しているとも言えるでしょう。米国の件の場合は、DOJが抽象的に権利侵害を認定して是正を求めているのに対し、NC州側はそんな事言っても外見上異性がトイレに侵入しているようにしか見えないのだからトラブルになると現実的な事情から反発しているのです。どちらの主張も正当性がありますが、現実的には整合せず、理想と現実が衝突を起こしている形ですね。

個人的には、もしTransgenderの権利を保護するというのなら、トイレの例で言えば転換のない男女と別に、転換男性・転換女性用のエリアをそれぞれ設けるしかないのかな、等と思ったりもするのですが、特定の少数者のためだけの負担としてはあまりに大きすぎるため、実際問題それを強制するのは難しいでしょう。理想的にはいっそ男女の区別も撤廃するという考えもあって、もしそのように変更出来れば様々な面で社会的には望ましい筈ですが、それは逆に性的プライバシーの侵害というより大きな人権侵害を伴うところ、その許容の強制はおそらく不可能であり、やはり実際には極めて困難と言えそうです。

結局のところ、全てを解決し、副作用なしに性的少数者の権利の保護を実現する方法というのは見当たらず、従って理想と現実の齟齬が解消される見込みもないまま衝突を続けているというのが現状なわけです。社会システム上で解決する手段がないのなら、これまで通り個々人の内心や個々のプライベートな場の内に収め、そこで各自が折り合いを付ける他ないのでしょう。

しかし、一度こうして声高に社会問題として取り上げられてしまうと、元に戻すのも困難になるわけで。これも一つの無責任の報いという事になるんでしょうが、どうするんでしょうね?そういう問題提起だけして放り出す、意識だけが高い無責任な人たちには困ったものです。一度取り上げたからには、責任を持って解決までマネジメントして頂きたく思う次第なのです。

The Department of Justice is suing North Carolina over its same-sex bathroom law