11/30/2025

[PC] Ubuntu25.10アップグレード

半期に1度の恒例行事、ubuntuアップグレードの季節がやってきました。

25.04から25.10へ。25.10のコードネームはQuesting Quokka、探求するクオッカ(ワラビー)です。

25.10ではsudoが従来のCからRustベース(sudo-rs)になる等、割とコアな部分の変更が加えられています。しかも25.10のリリース直後のsudo-rsには致命的な脆弱性が複数確認されていたりして、やばい雰囲気がそこはかとなく漂っていました。なおその脆弱性は既に修正済です。

とはいえ、変更点は基本的なシステム回りに集中していて、UIやアプリの挙動等の互換性という意味では特段問題ないように見えるものでした。ので、デスクトップとして使うのならさほど深刻な問題はないだろうと判断し、更新に踏み切ったというわけです。

いつものようにupdate-managerから更新。特段問題なく完了。

これまたいつもの動作確認を実施すると、予想通りデスクトップ等の見た目も挙動もほぼ変更なし、従って日本語入力・サウンド・ビデオその他諸々の基本的な動作についても問題なし。

ただ、問題がなかったわけではありません。 OS全体の話ではないのですが、下記のようなトラブル(?)に遭遇しました。

1.一部のアプリの動作がおかしくなる

2.一部のアプリが消滅 

1は、どうもアプリのファイルアクセス権限が制限されているようで、ファイルやディレクトリが開けずエラーを吐くケースが見られたというものです。

調べてみたところ、Apparmorの設定が変更され、ファイル等へのアクセス制限が強化されていたのが原因のようで、/etc/apparmor.d以下にある問題の生じたアプリの設定ファイルを以前のバージョンのものに修正する事で解決されました。(差分を見ると、25.10では基本のアクセス権限がリードオンリーになる旨の記述が追加されていました。)

Apparmorが原因の不具合というのは久しぶりな気がします。 昔はよくあってとても苦しめられましたけれども、近年は問題を起こす事は稀になっていましたから。しかし調査の過程で目にした情報からすると、今でもちょくちょく問題を起こしているようです。私は運良く遭遇しなかっただけという事でしょうか。

この辺は安全性とのトレードオフの話なので、ある程度この種の問題が生じるのは仕方がない事ではあるのですが、警告もなく唐突に規制を強めて、アプリが動かなくなってユーザーが困っても知らん、というやり方はあまりに配慮に欠けるというか、無責任だと言わざるを得ません。短期サポートとはいえ建前上はベータではない正式版なのに。。。こういうところがLinuxが一般に広まらない所以だろうわけですが、一向に改善されませんね。困ったものです。

2の方は、これまでもよくあった話ではあるのですが、今回は私がよく使っていた電子ブックのビューアーが後継が追加される事もなく消えていたりして、個人的に困りました。ビューアーとして複数のアプリを併用していたので、残った他のアプリに移行する事になる、だろうのですが、データによってはアプリ毎にエラーが出るものと出ないものがまちまちで、消えたアプリでしか開いていなかったものがあるので、ちょっとどうしようかなと。また新しいアプリを探すのかと思うとげんなりです。

まあでも、そのくらいです。 過去にアップグレードで発生した深刻な不具合の数々に比べれば大した話ではありません。所詮短期サポート版ですし。ただ、次の26.04はLTSなので、それは万全の状態でリリースされるよう願いたいものですね。前回の24.04LTSの時のような惨事だけは勘弁です。

しかし26.04LTSでは今回不具合を起こしたシステムツールのRust移行が全面的に進められる予定なんですよね。。。予定通りになるにせよ、不具合の発生状況から取りやめになるにしろ、トラブルになる可能性は高そうで憂鬱です。ともあれ、今回はこれでおしまい。

11/21/2025

[note] 情報の偏りがもたらすdiscommunication

どうにも話が通じない、というか。

話の前提となる事実や状況についての認識がかけ離れていて、コミュニケーションを取るのに困る事がなんだか増えたような気がするんです。

それ自体は、もとより立場も来歴も知識も異なる人同士であれば起こって当然の事ではあるんですが、基本的にそういう齟齬はパーソナルな事柄を中心に起こるもの、な筈です。そうであれば別に困りません。むしろそういう齟齬があるからこそ人同士のコミュニケーションに意味が生じるとも言えるでしょう。

困るのは、それ以外の場合、殊に客観的な事実や状況について深刻な齟齬がある場合です。

単純な勘違いや記憶違い位なら指摘すればそれで済むのですが、何がどうしたのか、明らかに事実と異なる認識を、しかも強固に持っているようなケースが以前より増えたように思うのです。

そのような場合は、訂正は極めて困難、あるいは不可能です。宗教における教義とまでは行かずとも、それに近い困難さを感じる事もあります。

以下、国際的な話の場合を例に取って述べます。

国際的な話題の場合、当然ながら国や地域、またそれらの関係についての知識・認識が前提として必要になるわけですが、これがどうにもおかしい事があります。

とりわけ、他国と日本との関係については、天動説的というか、まるで日本が常にその中心かその付近にいるかのように考えている、としか思えないような言動をしばしば耳にします。

具体例で言えば、最近の日本と中国の台湾を巡る関係悪化についての話で、中国の総領事が高市総理に対して過激な発言をした件について、"世界が見ている中であのような暴言、恥ずかしくないのか"、とかそういった言葉が出てくるのです。

こちらは、世界が見ている?何を言ってるの?と困惑する他ないわけです。

本来言うまでもない話だと思うんですが、どの国の人も、自分達に直接関係しない他国の話など気にも留めません。日本のメディアや一般市民にしても、例えばインドとパキスタン、あるいはイギリスとフランス、またイスラエルとイラン、近々ではタイとカンボジア、そういった他国同士が多少関係を悪化させた時に、それに興味を持って注目する人、注目した人がどれほどいるでしょうか。

ああそう、大変だね、と一応事実を認識した上で聞き流すならまだ関心を持っている方で、大半はそもそも気にも留めなかったでしょう。まして詳細な経緯、具体的なやり取りに関心を持つはずもありません。

当然です。他人事なのですから。 そしてそれは、そのまま他国の人が日本について取る態度でもあるのです。ああそう、大変そうだね。私達に関係ないなら、どうぞご勝手に。

他国間の事に関心を持ち、注目するのは、自分達に直接関係する、それも現に関わる必要がある場合のみです。米国で言えば、Ukraine-Russia、Israel-Arab諸国のような場合ですね。実際に戦争をやっている地域が幾つもあるのに、口喧嘩や貿易規制程度に一々注目する意味もないでしょう。

実際、件の日中の関係悪化についての米国での報道での扱いは微々たるものでした。"日本が中国を怒らせ、制裁を課されている"、という記事がworldカテゴリの中で取り上げられただけです。トップニュースはEpstein filesの公開に関する話題やICEの不法移民摘発等、国内のニュースが大半を占め、そこに時折IsraelやUkraine-Russiaの話題が入り込む位でした。日中の問題自体、注目などされていない。関係記事を漁れば詳細も知ることも出来なくはないでしょうが、わざわざそんな事をする物好きはほとんどいません。

米国は台湾問題については当事者に次ぐ、比較的関係の深い立場の国ですが、その米国ですらそのような扱いです。世界が見ている、などとはとても言えないでしょう。

いわんや総領事の発言をや。そんな事は日中両国内のローカルな話でしかないのです。

しかるに、上記の世界が見ている云々の発言は、世界に恥を晒している、という視点から、すなわち欧米各国等の他国も含めた国際世論という、ありもしない立場を仮想し、その存在を前提にして発せられているように聞こえました。そして、国際世論の観点から間違っているのは中国の対応であり、従って諸国は日本の味方な筈だから、各国の協力も得られるだろう、というような想定で話していたのではないかと思うのです。

そんな想定は成り立たないのですけれども。この状況であえて日本の味方をする、すなわち中国の敵に回るメリットはありません。しかるに中国との関係悪化がもたらすリスクを考えれば、中国との関係を徒に悪化させようとする国などないでしょう。欧米各国ですらその例外ではありません。仮にそれができるとすれば、中国との利害関係がない国に限られるでしょうけれども、そんな国が現実にあるのかも疑わしいところですし、そんな国があったとしてもそのような国は日本とも利害関係はないでしょう。

この辺りは私の推測ですが、"世界が見ている・・・"という発言は、そういう、ありえない想定を前提としているものと解釈しなければ理解し難いように思われたのです。その人は、おそらくは、中国に強硬な態度を取るべきだ、という意見を持っていたのでしょう。国際世論の趨勢を根拠にして。

私としてはそんな事は不可能だ、というかそんな事は他国にとっては関係ないし、今回の件はもっぱら日中間の問題だから、現状の日中双方の立場と関係を踏まえて日本は中国に対してどう対処すべきか、今後の関係はどのような形を目指すべきか、とかそういう話をするべきだと思うのだけれど、相手の寄って立つ前提、問題に対する視点からして噛み合わないものになってしまっていて、発言に窮してしまった、というわけです。

話を続けるのは困難だと思ったので、その時の会話はそこで打ち切りにしました。コミュニケーション失敗です。

話を戻します。このところ、上記と似たような、ありもしない前提からされる発言を聞く機会が増えたように思います。これが偶然なのか、必然なのかは判然としません。

ただ、こと上記の、日本が各国から常に注目され、重視されている、という認識については、国内メディアというかネットも含めた日本人向け報道の傾向が影響しているのではないか、と思う事はあります。

元より日本の国内メディアはとにかく日本が関係する事しか報道しない、という傾向が非常に強い性質があります。自国の関係する話題を優先する事自体は万国共通ではありますが、日本のメディアは特にその傾向が強いという事はしばしば指摘される所です。

その傾向は、海外の事柄についても貫徹されています。日本が関係した事しか報道しない。すなわち、世界中の国々が営む膨大な活動のほんの一部しか取り上げない。その数少ない取り上げられる事柄についても、基本的に日本の視点からしか見ないし、見せない。相手の視点が取り上げられるとしても、それは日本に対するアクションがあった時、すなわち日本に注目した時の事しか取り上げられず、その他の事は最低限に留める。加えて、ポジティブなアクションがされた場合は殊更に取り上げる、と万事そんな調子です。第三者的な視点など皆無です。

するとどうなるか。 

結果として、日本向けの報道・記事に載る海外各国とその人々と関係する事柄は、およそ全て日本がその中心にいるか、重要で密接な関係を持ち、あるいは特別視される、"常に承認されている"姿ばかりが取り上げられ、報じられる事になるでしょう。実際には、その出来事の内のほんの一部、一時、一側面に過ぎない事であっても。

それに晒された人が、当然の結果として、海外各国、またその日本との関係はそういうものなのだ、と錯覚するようになる。一方でそれ以外の、日本とは関係ないところで営まれる各国の通常は全て捨象されてしまう。あるいは、そのような姿が主たるものと思い込む。

そういう、日本語メディアのもたらす弊害、言ってしまえば一種の洗脳こそが、認識の齟齬の根本的な原因なのではないか。

各国の実態を知っていれば無論ありえないし、そうでなくとも、日本向けでない各国の報道を多少なりとでも見ていれば起こり得ない話です。私自身、本当にそんな事が起こるのか、との疑念を禁じ得ないところではあります。しかし、考えれば考えるほど、そういう事が起こっているのではないか、という思いを否定出来ないのです。ほとんどの人は各国の実態なんて知らないし、日本向けでない各国の報道なんて見ないのですから。

そしてそのような現象は、日本と海外の関係に対する認識だけではなく、その他の、あらゆる事柄で起こりうるでしょう。溢れ返る情報に溺れ、そこで取り上げられた部分や側面だけが全てとされて、捨象された事柄・部分・側面等は存在しないものとして扱われてしまう。恐ろしくも病的。SFホラーのような話です。

まあ、実際にそうなっているのだとしても、どうする事も出来ないのですけれども。メディアは受け手が見たい情報を報じるものなのだし、多くの人がそういう情報を求めているというのなら、誰がわざわざそれに逆らって、求められてもいない情報を流せるというのでしょう。まさしく求められていない情報が駆逐された結果が現状なのでしょうし。

誰も逆らえないし、そもそも逆らう気にもなれない。無意味だから。

表現の自由の行き着く先が、そのようなディストピア染みた、人々(の多数派)が求める情報に支配される世界だと言うのなら、それは皮肉な話ですね。

そこでは、情報に流されない、従って錯覚に溺れる事が出来ない人は、理不尽な疎外感を抱えて生きる他ないのでしょう。嫌な世の中になっていく、と一人で嘆くのがせいぜいでしょうか。残念なことです。