6/27/2011

[biz] 原発稼働論者の判を押したような浅慮

ここ最近、政財界を中心に、原発稼働すべしとのポジショントークをする人達が増えてきているように見えます。経済活動そのものに直結し、原発業界単体だけでも相応の規模があるのだからその利害が絡む人の範囲は広く、その程度も大きく、その権益を守ろうとする活動が出るのは当然で、それ自体は別段何という話でも無いのですけれど。

ただ、その態度、論理の構成が稚拙でいけません。皆、判を押したように経済活動に必要だから、原発が無いと経済が衰退するからと、原発による経済活動面の利益、またその裏返しであるところの停止した場合の利益喪失、すなわち結局は経済的な利益の面を強弁するばかり。第一に必須であるところの、事故とその被害、またそれによって崩壊した原発立地周辺地域における安全とそれに対する地域住民の信頼、それらの補償、修復、担保については、実質的に何ら言及していないのです。

決定権は周辺自治体、住民にある。そして、住民は現実的に生命の危険を認識し、安全の保証を何よりも必要としている。ならば、彼らが納得する保証、それが将来の約束でなく現実に完成した事を彼ら自身が確認した後でなければ妥協の余地などある筈もありません。それを無視して単に稼働の利害を語った所で、単に無意味なだけでしょう。むしろ危機感を煽って逆効果になりもするでしょうし。

地域への安全の保証、それを構築するには、多くの事がなされる必要があります。第一に福島原発の事故の避難者の従前の生活回復も含む完全な終息、第二にその事故の可能性についての具体的かつ詳細な分析把握、それに基づいた安全性基準の構築、分析法の確立、次いでそれらによる既存原発の個別分析と可能な場合の設備再構築、不可能な場合の廃棄。長年に渡る行政・原子力事業者の安全性に対する瑕疵、虚偽の責任、それらの落とし前も必要でしょう。それらが将来の約束ではなく、現実として完成しない限り、地域の同意は得難いものと考えるべきです。

それは無理、というのであれば、それはすなわち原発の維持自体が不可能という事実の証左に他なりません。現に福島の人達は家を追われ、避難地域外でも放射性物質に生命を脅かされているわけで、明日は我が身と考えるのは当然の話なのですから。金は大事、だけれど金で売れないものもある。そんな事も理解せず、命の危険のないところから、危険を他人に押し付けて自身の利益を守ろうとする、その行いの醜悪さ、愚かさは目を覆うばかりです。